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2005年05月20日

資料では決して分からないこと

昨日は久しぶりに原稿をあまり書かず、ここのところたまっていた「調べないといけない事柄」の調査日にあてた。昔なら図書館に通い詰めたり、何軒もの書店を回ったり、苦労して取材の許可をもらったりしなければならないところだが、最近ではほとんどのことがインターネット上で調べられてしまう。なので、結果的に一日中机に向かっているという意味では、普段と変わらない一日になったのだが。

ネット資料探しの欠点としては、サイトによっては情報が不明瞭であったり、まったくのデタラメな情報が混ざっていたりすることで、必要な内容を発見したあとも、その単語で再び再検索をかけ、複数のサイトで同じ説明が繰り返されていることを確認する必要がある。また、それらのサイトがすべてブログや個人サイトであった場合、全部がどこかひとつのサイトの受け売りである可能性が否定できないため、再度書籍や専門家への質問で確認もしなければならない。
もちろんフィクションなので、多少の事実の婉曲が物語上必要と判断すれば行いもするが、とにかく正確にできることは、極力正確にしたいとは思っている。

そんなわけで一日に何百というサイトを見て回る結果になったのだが、問題は調べる中身である。これが業界ものラブロマンスか何かだったら、そう苦痛でもないのだろうが、何しろものが行方不明事件を熱かったサイコサスペンスで、なおかつ若干の超常現象的要素を持つ物語である。当然、調べる内容も「行方不明事件」「猟奇犯罪」「鑑識捜査」「死後硬直」「脳腫瘍」「霊能力」「都市伝説」などの大変ダークなものが中心となる。これらについては国内で手に入るほとんどの関連書籍と、一部外国の本格的な資料も読んでいるが、何度読んでもたまらなく陰鬱な気分にさせられるものばかりだ。

そんな中、とある理由で行方不明になっているキャラクターの「捜索願いのポスター」を物語中に登場させなければならなくなった。そういったポスターにどの程度の情報が載せられるのが普通なのかと思って、実際の例を検索してみたところ、悲しいほどたくさん見つかってしまった。その多くは実際の被害者の家族などが運営しているサイトで、正直、精神的に資料として見ることのできないものが多かった。ポスターだけ客観的に見ようとしても、その周辺に書かれている痛ましい内容に目がいって、気がつくとサイト全部を読まずにはいられなかった。

そして読んでいる内に、とても大切なことに気がついた。
いつの間にか、書いている物語がドラマではなく、ミステリーになってしまっていた。
ミステリーでは、多くの場合、「被害者」は大道具のひとつに過ぎない。「死体」でさえ、名前と年齢のついた「証拠物件」のひとつとして描かれることが多い。被害者の家族が登場するのはアリバイの証言のためや、容疑者のリストを増やすためであって、被害者の人柄や人生を描くためであることは少ない。ミステリーはある意味、「物語がついた大きなパズル」として捉えられる側面もあるので、仕方がないとは思うのだが、個人的にはそういう物語は書きたくなかった。

ただ、謎を組み立て、伏線を成り立たせることに気を奪われすぎて、いつの間にか「被害者」の存在が設定のひとつに過ぎなくなっていた。たとえ物語中では書類上の名前でしかないキャラクターでも、確かになんらかの人生をどこかで生きてきたはずなのである。それが見えない、ただのデータになってしまっては、物語としての意味が大きく薄れてしまう。フィクションであるからこそ、「人」だけはちゃんと描かなければならないはずだ。

今書き終わっている原稿の大半を書き直すことになっても、やはりもう一度その点を見直して、再構成してみようと思う。「生きている実感がない」と感じるような現代だからこそ、人の生き死にを扱う物語はたとえパズルのようなミステリーであっても、死を軽く扱ってはいけないのだと思う。特に若い世代に読んでほしいと思うからこそ、それは尚更重要なことに思える。

「殺人事件」や「行方不明事件」をマスコミや警察の立場と違い、「ある日、日常に起きてしまった悲しい出来事」として紹介している多くのサイトがある。そこには興味本位では決して見ることのできない、悲痛な痛みと苦しみの日々がにじみ出ていて、新聞が片隅にしか扱ってくれない事件も、当事者にとっては人生を埋め尽くす恐ろしい出来事である現実をまざまざと見せつけられる。

テレビや新聞に登場するニュースは、加工された、編集済みの情報に過ぎない。そこには痛みはわずかしかない。
そんな視点で物語は書かれてはいけないと思う。
「行方不明事件」を物語として扱うからには、たとえフィクションであっても、痛みがなければうそになる。
大切な人がいなくなるということは、想像を絶するほど辛いことなのだ——そんな簡単なことを見失っていた自分が本当に情けなかった。

昨日一日で知ったことだが、日本だけでも、たくさんの行方不明の子供たちの親が今も我が子の帰りを待ちわびている。
そのうちの一人でも、二人でも、一刻も早く無事に見つかることをただただ願わずにはいられない。

投稿者 向山貴彦 : 2005年05月20日 14:00

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