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2005年05月23日

残り2.5Ghzの茫漠とした空間に思う

今年後半から来年にかけて相次いで発売されることになる次世代ゲーム機の映像というのを見た。
確かにすごい。映画と見まがうような画面が普通に動かせている。技術の進歩もここまできてるのか、と感心する一方で、ぼくの心は少しも感動していない。それどころか、奇妙に冷ややかにその美麗な画面を見ている。
いったい、これは誰が求めている技術なのだろうか。
少なくても、ぼくではない、と思う。

最近とみにそう感じることが多い。
パソコンのCPUの思考速度が2Ghzから3Ghzになった。すごいことなのだろう。しかし、その差を体感してる人間がいったい何人いるのだろう。メールを送るにも、インターネットを見るにも、1Ghzの半分のCPUでも十分すぎるほどである。残りの2.5Ghzはいったい誰のためのものなのだろう?

携帯電話もそうだ。ほとんどの携帯電話に今やカメラがついている。ぼくの携帯にも三年前からカメラがついている。しかし、この三年間面白半分に数回写真を撮った以外、これといってその機能を有効に使った記憶がない。それどころか生まれて今日まで振り返ってみても、カメラ付きの携帯電話が致命的に必要だったというシチュエーションがどうしても思いつかない。カメラだけではない。ほかに山ほどついている機能も、アドレスブック以外にほとんど使ったことがない。メールはたまに使うが、それもなくても困らない程度の使い方である。むしろついているから使わないといけないような気がして、使っているという方が正しい気がする。

HDDレコーダの機能も半分以上使っていない。ファックス付きマルチ機能電話はボタンが多すぎて、未だに電話をかける以外のボタンの利用方法がひとつも分からない。留守番電話のメッセージを消去するボタンが発見できなくて、最初の半年間に116件メッセージがたまって、中のメモリがパンクするまでほっておいたこともあった。分からない機能があってサポートダイヤルに電話すると、向こうも全部の機能を把握している人がいないのか、たらい回しにされる。

いったい誰のために、文明は今も進化し続けているのだろう。

ぼくは子供の頃、テレビゲームが大好きだった。
でも、そのテレビゲームというのは昨日見た次世代機の映像とはおよそかけ離れたものである。最初に夢中になったパソコンのゲーム「スタートレック」で、ぼくが操る「母艦」はアルファベットの「E」という文字だった。それで小文字の「o」の星の海をめぐり、敵である他のアルファベットを「撃墜」して遊んだ。いつか、本当に母艦の形をしたゲームを操れれば楽しいだろうな、とは漠然と思っていたが、別に「E」でも十分だった。ぼくにはそれがちゃんと宇宙船エンタープライズ号に見えていたのだから。

しかし今、まるで実写映像の中を疾走するかのような車のレースゲームを見ても、ぼくの心は死んだように動かない。驚きも、感動も、ワクワク感もない。まるでちっともほしくないブランド品のカバンを見せびらかされているような気分だ。ぼくは今のゲーム機でもう十分だ。あと二十年ぐらい、この機械を愛させてほしい。パソコンもソフトウェアもバージョンアップなんてしてほしくない。今持っているこの機械に愛着ができるまで使ってみたい。飽きるまで同じもの、同じ人を愛したい。そのためなら便利さなんていらない。——第一、今の状態で十分便利だ。これ以上どう便利にできるのか、想像ができない。
深夜でもコンビニでお金が卸せ、なんでもカードで買うことができ、電話一本で世界中のものが取り寄せられ、その気になれば一日で国を一周できる——いったいこの現代という世界をまだ不便だと感じている人がいるのだろうか?

今朝、ふと「将来できたらいいな」と思うものが何かあるか、考えてみた。
子供の時にはいっぱいあった。でも、そのほとんどはぼくの想像をはるかに上回る形で、すでに実現されている。
辛うじて思いつくのはいろんな難病の治療薬ぐらいだ。それ以外、「あったらいいな」と思うものは、すでに全部ある。

今、この短い文章を2.7Ghzのパソコンで打っている。
ぼくが二十二年前に買ったワープロでも、たぶん同じように打てたと思う。

いったいこれは誰のための進化なのだろう?
いったい我々はどこへ行きたいのだろう?

次世代ゲーム機が内蔵している超高速の電子頭脳も、その答えだけはどうも教えてくれそうもない。

投稿者 向山貴彦 : 2005年05月23日 02:32

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