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2005年02月14日

超能力とフィクション

「超能力少女もの」って前回書いたのを一日あとに読み返して、「うわあ、なんちゅー怪しい表現だ」と思ってみたりしている向山です。「超能力」っていう単語も、「少女」っていう単語もどちらも怪しいのに、二つ組み合わせると凄まじい破壊力を生むのがよく分かりました。——まあ、この単語が持っている響きよりは、実際の作品はもっとずっと「羊たちの沈黙」よりなので、中和はされていると思います。関係各方面の方々は御安心を。

思えばぼくの子供時代は超能力ブームで、ユリゲラーが来日して、スプーン曲げがはやって、ESPやら透視やら念写やらっていう特集記事があたりまえのように学習雑誌に組まれていたすごい時代です。
漫画でも少年漫画、少女漫画問わず、超能力ものは定番で、誰一人そんな能力を持っている人が身近にいないにも関わらず、不思議と超能力の概念は日常に馴染んでいました。当時の子供には、疑いようもなく必ずこの世に存在するものだったんです、超能力は。

ぼくも例にもれず、近所に住んでた友達に「エネルギー衝撃波」と称して、石を後頭部に投げつけたりしていました。ちょっと当たり所が悪いと、すぐ保健室行きになる危ないエネルギー衝撃波でした。(まあ、後年はやった「ペガサス流星拳」や「北斗百裂拳」に比べればどうっていうことないものでしたが。)

で、大人になってから、けっこうまじめにこの超能力とか霊能力とかっていうものに関して調べてみたりしました。
すると、どうしても現実の世界では「超能力」というのは、同じく超自然的な要素を持つ「霊魂」や「宗教」といった要素とからんできてしまいます。考えてみれば、宗教の指導者はキリストにしてもブッダにしても、みんな超能力者なわけですから、当然といえば当然です。だからなのか、超能力に関するあらゆる事例について、必ず否定したがる人が登場します。こういった人の心理というのは実に不可思議で、仮にうそを証明できたとして、自分には一文の得にもならないのに、ひどく一生懸命です。まるで超能力が実在したら、自分の生命に関わるかのような熱意で否定論を展開します。

今回、超能力について書いてみたいと思ったのは、能力そのものよりも、互いの存在意義を賭けて行われるそんな「超能力否定肯定論」の戦いに興味が湧いたからでした。

そもそも多くの人にとって、超能力は概ねエンターテインメントです。手品と同じで、仮にタネがあったとしても、驚き、感動するための手段です。たとえ心のどこかで嘘だと思っていても、テレビの超能力特番を喜んで見てしまいます。なんの夢も希望もない日常とは違う世界が実在しているかもしれない、という可能性に感動しているのだと思います。
で——ぼくが生業としている「フィクション」の世界にも同じことがいえるような気がします。言ってしまえば、すべてのフィクションはみんな「うそ」です。本当に起きた話ではありません。だから何を書いても「うそじゃん」と言われれば、ある意味、それで終わりです。

でも、そんなフィクションを読んで、人間は楽しんだり、悲しんだり、感動したりして、それを糧に生きていくことができる不思議な力もあります。架空の物語を読んで、そこから前向きな力を得て、それで実際の人生を変えてしまうこともあります。一般的には「想像力」と呼ばれている力ですが、「考えるだけで何かを動かす力」を超能力とするなら、あるいはそれだって立派な「超能力」かもしれません。

今回はそんな広義の意味での超能力ものですが、それ以上に謎がいっぱい、ドキドキすることいっぱいの物語にしたいと思っていますので、どうぞ御期待下さい。

(そんなことを考えながら、今、新しい作品を書いているわけですが、まあ、当面の課題はそんな大げさなことよりも、今の高校生のしゃべり方を研究することだったりするわけです。)

投稿者 向山貴彦 : 2005年02月14日 14:34

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