それも済むと、家中のゴミを集めて、ゴミ袋を出し忘れないように玄関のところに置いた。出かける準備がすべて終わったので、ベッドルームに引き返して、ワインの横の小瓶を再び手に取る。コートのポケットに小瓶を入れると、ジャラッという音がした。
 「じゃあね、カズ君。」
 精一杯の笑顔でカズ君に言った。カズ君はやはり何も答えない。無口なのだ。そんな彼がずっと好きだった。
 小さなため息をもらして、ゆっくりと玄関へ向かう。ふと、もう一度だけカズ君を横目で見ると、カズ君の姿はかすれ始めていた。
 一つだけ勘違いをしていた。何も言わないのと、何も感じないのは同じことだと思っていた。自分の場合がそうだったので――少なくとも波の音が聞こえるまでは――てっきりみんなそうだと思っていた。
 でも、違った。同じじゃなかった。
 靴べらを使って靴を履く。突然、ガシャンという大きな音が背後で響いた。振り向くと、鉢が鉢置きから滑り落ちて割れている。
 波の音がかなりひどくなっていた。寄せては返し、寄せては返し、同じところを行ったり来たりしているようでも、波はしっかり沖へと後退している。
 ゴミ袋をつかんで少し慌てて玄関を出た。胸の内側で心臓が動悸しているのを感じながら、玄関の鍵をかけて、階段を急ぎ足で降り始める。ゴミ袋の底がスチール製の階段に当たって金属音を上げていたが、ますますひどくなる波の音で、それがよく聞こえていなかった。ゴミ袋の底に入っているガラスの瓶がカン、カン、カンと夜の静けさに響き渡る。
 アパートの角にあるゴミ置き場にゴミ袋を放り込んだ時には、額に軽く汗をかいていた。胸の動悸もひどい。焦って海へ向かおうとしたが、寸でのところで思い出して、ゴミ置き場の横にある缶ジュースの自販機へ引き返してきた。
 財布はコートのポケットのどれかに入っているはずだ。左右と胸のポケットを探ったが、小瓶以外に何も入っていないことを知って、全身から冷や汗が吹き出した。脈拍が異常に早い。波の音。心臓が波打っている。血液が波打っていた。もう時間がない。――呼吸を乱しながら、必死になってコートのポケットを全部もう一度探ってみる。やっぱりない。息が出来ないぐらい呼吸が速くなる。なんだか、このまま倒れてしまいそうだった。
 ふいに指の先が財布に当たる。内ポケットだった。ひどく震える手で財布を引っ張り出して、それを地面に落としてしまった。慌てて屈んで拾うと、めまいがする。なかなか言うことを利いてくれない指先でやっと財布を開けて、ブルブルと震える指でなんとかお金を投入口に入れた。飲み物のボタンはただ闇雲に押す。ガチャンという大きな音で缶ジュースが出てきた。でも、その音は聞こえなかった。もう波の音しか聞こえなかった。
 出てきた缶をつかむと、不思議と少し心が落ち着く。波の音は治まらなかったが、脈拍はゆっくりと下がり始めていた。缶が温かい。一度ゆっくり息を吸って吐いてから、波の音に導かれるように、住宅街を海岸へ向けて歩き始めた。
 この辺りは新興の住宅地で、昼間でも人通りは少ない。波の音だけが打ち響く世界の中を、誰ともすれ違うことなく、ただ歩いた。頭上に円くて明るい月が浮いている。きっと自分の中の潮の満ち引きもあの月に引っ張られているのだろう。
 前を進む自分の影を追うようにして歩いていると、いつの間にか小走りになっていた。路地の突き当たりで柵を乗り越え、立ち入り禁止区域の雑木林の中をさらに先へ進む。軽い勾配を急いで上っていると、ポケットの中、小瓶の中で、赤い粒がジャラッ、ジャラッと一歩ごとに音をたてた。激しい波音の中で、不思議とその音だけは耳に届く。
 雑木林を通り抜けると、潮の香りが一気に濃くなった。眼前に暗くて平たい海が突然広がる。海面は月明かりを帯びて鈍い輝きを放っていた。
 スカートを舞わせる風。風の音が聞こえるようになったことに気づいて立ち止まる。ハアハアと乱れている自分の息遣いも聞こえた。失っていた現実感がほんの少しだけよみがえってくる。怖かった。
 海の方へ進めるだけ進むと、崖っぷちに出た。崖の下を覗くと、暗い水面がはるか下に見える。思わずビクッと身を引く。涙が一滴、ほおをこぼれた。――いったい何を祝って、あんなにたくさんのワインを開けたのだろう。今考えてみると、一つとして理由を思い出せなかった。どれも他愛もないことだったような気がする。祝うべきだとされているから、祝ったことばかりだった。
 風が強かったので、足を取られないように気をつけながら、崖のもっとも先端まで歩み出て、静かにその場に座った。そして、ゆっくりと仰向けに寝転がる。左右に少しでも動けば転げ落ちるほど、崖の先端は狭い。風に服を引っ張られて引きずり落とされそうで怖かった。
 空を見上げると、初めて星がたくさん出ていることに気づいた。体の中の波の音と、崖の下から昇ってくる静かな波の音が重なって聞こえる。また、涙がこぼれた。怖かった。矛盾している。たくさん矛盾している。傾いている。怖かった。
 手の中の飲み物は缶コーヒーだった。ポケットから赤い粒の入った小瓶を取り出して、缶コーヒーの蓋を開ける。小瓶から五錠、赤い粒を掌に出して、しばらく考えてからもう五錠それに加える。そして、ぼんやりと星を見上げながら、それを一粒ずつ呑んでいった。
 呑みながらカズ君の顔を思い出そうとしたが、なぜか急に思い出せなくなっていた。顔を思い出そうとしているうちに名前も思い出せなくなってしまう。もしかしたら、彼もいっぱい集めたコルク栓の一つだったのかも知れない。  赤い粒十錠をすべて呑み終えると、瓶を傍らに置いて、一呼吸ついた。仰向けに寝転んだまま、顔だけを横に向けると、ほっぺたが冷たい石の地面に触って気持ちがいい。目元に溜まった涙がほおを流れ落ちて、石の上に垂れた。
 いつの間にかしびれが消えている。――初めて微かな痛みを感じて、焦って赤い粒の入った小瓶に目をやった。瓶のラベルには十五分から二十分と書いてある。
 長いなあ、と思いながら目をつむる。
 掌を転がるいびつなコルク栓の様子が頭を横切った。なんでコルク栓なんか集めていたのか、やっと分かったような気がする。いびつな形。私と良く似ていた。

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