五、
 三日目。私は妙案を思いついた。
 こちらが先に座るからいけないのだ。彼女の方を先に座らせればいい。私はそのあと、ゆっくりと席を選べばいいのだ。
 そんなわけで、三日目は一日目よりも十分遅く家を出た。それでも教室に着くと、授業が始まるまで時間があったので、念のため、ギリギリまで男性用のトイレの中で過ごすことにした。洗面台の鏡に映った、なんとも間の抜けた自分の姿を見ながら、ふいに我に返って恥ずかしくなったが、あまり考えないようにしながら腕時計の針を見ていた。
 一分前。そろそろいいだろう。
 私はおもむろに男性便所を出て、廊下を教室まで進み、教室の一番後ろにある扉に付いている覗き窓から中を見渡した。少し恥ずかしかった。遅刻してきた学生の気持ちが分かるような気がする。授業前の教室は雑然としていて、視界があまり利かなかったので、私はまゆをひそめて、教室を目だけで一周した。幸いあれだけ派手な格好の女性である。見つけるのはそれほど難しくないはずだ。
 「何してんの?」
 私はガラスに顔を付けたまま固まった。殺虫剤の臭い。振り返る必要もなかった。
 「早くしないと遅刻するよ。」
 私がゆっくり振り向くと、これまでよりもさらに一段と常軌を逸した配色の服装で、女性は笑顔で私に言う。女性の首の周りには何か動物のようなものが巻かれていた。私の女性のファッションに関する知識の中では、それが何らかのマフラーの類いであること以上、何も想像が付かなかった。なぜ彼女の着ている服の腹部のところだけが網状になっているのかに至っては、もはや考えてみることすら無駄に思えた。――私が若かったころには、網は確か、何かを捕獲するために用いる道具だったはずである。
 女性は私の背中を押して、教室の中へ押し入れる。いくつかの視線が私たちの方へ集まった。おそらく相当奇異な組み合わせに映るのだろう。無理もない。
 彼女の方はそんなことをまるで気にしていないように、私の腕を取って、教室の真ん中の方へ引っ張っていく。私は赤くなりながら、オタオタと彼女のあとを付いていく自分を客観的に想像して、消えてしまいたかった。彼女は私の腕に目一杯ほっぺたをすり寄せて、屈託のない声で囁く。
 「おじさん、また紙貸してね。」

六、
 「元気、おじさん?」
 ――四日目。私は一日目と同じところに座っていた。彼女が近づいてくるのも、臭いでかなり前から分かっていたが、もはや回避することはあきらめていた。私は彼女が座れるように自分から席を空けて、黙って前を直視したまま固まっている。彼女はいつも通りの能天気な笑顔で、今までとは少し種類が違う――しかし、同じぐらい殺虫力を秘めた――香水の臭いをまき散らしながら、上着(正確な名称は分からないものだった)を脱いで、それを折り畳んでいた。
 私はおもむろに咳払いをして、ごく稀に、何度言ってもレポートを提出しない学生にだけ使う声のトーンで彼女に言った。
 「これを使いなさい。」
 私はあらかじめ用意しておいた新しい大学ノートと、先の削れた鉛筆三本を、前を向いたまま彼女の正面へスッと差し出した。彼女は一瞬不思議な顔をしたあと、点検するような手付きでノートの表紙をペラッとめくって、中に何かが住んでいるように覗き込んだ。私は続けて自分のカバンから、箱に入った分厚い辞典をとりだすと、それもノートの横にドンと置く。そして、じっと前を向いたままで付け加えた。
 「私が昔使っていた漢和辞典だ。少々古いが、まだ十分に使える。これを君にあげよう。」
 「くれんの?」女性は大きな声でそう言ってから、ニャーッと笑って、私のわき腹をひじでなじった。私はビクッと身を引く。「なになにーっ?あたしの気を引いてどうしようって言うの、おじさん?」
 「ど、どうって――」私は唖然とした顔で彼女の方をにらんだが、彼女は漢和辞典をパラパラとめくっていて気づいていないようだった。「わ、私はただ――」
 私の言葉を遮って、女性はけだるそうな声で小首をかしげて、私の方を見る。
 「うれしいんだけどぉ――」彼女は『ど』の後ろに『お』をつけて、さらにそれを通常の発声の約五倍ぐらいに延ばして、辞典を私の前に掲げて言う。「これ何?」
 ――『何?』――『何』とはどういうことか、私は考えた。何の辞典という意味なのだろうか?それともあまりに古いので不満を訴えているのだろうか?文学で博士号までとった私だったが、この女性の使う言語はどうもいちいち理解しにくかった。ドイツに行った時でさえ、もう少し――
 「私、バカだからさぁ。こういうのもらっても困るんだよねー。ねえ、こーするよ。ノートと鉛筆だけもらっとく。漢字は今まで通りおじさんが教えてくれるんでいいからさ。」
 漢和辞典を私の方へ返そうとする彼女の単純な笑顔を見て、私は思わず小さな声で聞いた。
 「も…もしかして、漢和辞典を知らないのかね?」
 「漢和辞典?何それ?」彼女は一瞬キョトンとしてから、自分の手の中にある辞書を見て、世紀の大発見でもしたかのように言った。「ああ、これ!?これ、漢和辞典って言うんだ。」
 「小学校や中学校で使ったことぐらいあるだろう。」
 「あんま勉強しなかったからなあ、私。国語辞典なら聞いたことあるよ。」
 「これも似たようなものだ。」私はまだ彼女が本当に漢和辞典を知らないのか、私をからかっているだけなのか、半信半疑で彼女の手から辞典をとり、箱から出した。ほこりが宙に舞う。確かにかなり長い間、使っていなかったようだ。「分からない漢字を部種別に画数順で牽くようにできてる。まず左辺の方から――」
 一目で分かった。私の説明は明らかに一言も通じていない。彼女は今し方、訃報でも受けたような顔でキョトンとしている。私は彼女の困った顔を見て、途中で話すのをやめて咳払いをした。
 「やっぱさ、おじさんが教えてよ。その方が早いよ。」
 彼女があまりにあっけらかんと言うので、私は思わず口に出して言ってしまう。
 「それが迷惑なんだ。君は自分が私の勉強の邪魔をしていることも分からないのかね。」
 私は言ってからすぐに後悔した。こんなに感情的に何かを言ったのは何年ぶりだろうか。私はてっきりそのあと、女性が怒るか、ふてくされるか、少なくても何か言い返してくるものかと思ったが、意外なことに、彼女は心底ショックを受けたような顔で私を呆然と見ていた。――一瞬、ある過去の出来事が頭をかすめる。胸が痛むのを感じた。取り消そうと思って何か言いかけたが、彼女がその前に私につぶやく。
 「そっか…」彼女は私から目を背けて続けた。「ごめん。もうじゃましないよ。」
 言いながら、彼女は私の側から体二つ分ぐらい離れる。――しっかりとノートと鉛筆だけは一緒に持っていった。私は手に漢和辞典を持ったまま取り残されて、どうすることもできずにちょうど鳴りだした始業ベルを聴いているしかない。

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