三、
 気づかれないようにジリジリとその女性から距離を取って、授業も半ばに差し掛かった頃、やっと一メートル近く離れることに成功して、私はようやく授業に集中しかけているところだった。先生は手話で自己紹介をする方法を説明していて、身振り手振りで話しながら、大切なことを黒板に書き出している。年は若いが、熱心そうな先生である。どうやら選んだ学校は正解のようだ。少なくても私が知っている多くの大学講師よりはずっと真剣な顔つきで授業に取り組んでいた。
 私は老眼鏡をかけて、なかなか読みにくい黒板の文字をノートに写すことに夢中になって、しばし横の女性のことを忘れていた。ところがしばらくして、その女性が向こうからこっちへ近づいてきた。視界に入る前に強い臭いで分かる。彼女がつけている香水は、私の時代ならおそらく殺虫剤として使われていただろう。――私は硬直したが、女性はなれなれしくピッタリ体をくっつけてきて、私の耳元で何かをささやく。
 「ねえ、おじさん。あの字さあ、なんて読むの?矢印の右の三つ目の奴。」
 私の脳細胞の多くはすでに彼女の香水のために麻痺していたので、彼女が言わんとしていることを理解するまでにしばらく時間がかかった。彼女はしきりに「あれ、あれ。」と私を促しながら黒板を指している。どうやら彼女は『挨拶』という字が読めないらしい。
 「…あれは『あいさつ』と読むんだ。」
 「ああ、なんだ!」女性はパチンと指を鳴らす。周りの視線が一斉に私たちの方へ注がれた。「どっかで見たことあると思ったんだ。挨拶か。ありがと、おじさん。あたし、バカだからさ、漢字とか良く分かんないんだよね。また教えてよ。」
 そう言って、彼女は私が何か言える前にカバンごと私のすぐ近くに座り直した。そして、私の不安通り、それからことあるごとに私に黒板の漢字の読み方を聞いてくるようになった。それも、どれもこれも中学生でも十分読める漢字ばかりだった。彼女は私に漢字を教わる度、それを平仮名に直して私のノートから破り取った紙に書き留めていた。授業の途中のどの時点かで最初の一枚の裏表を埋め尽くした彼女は再び何かを明るく囁きながら、私のノートからもう一枚ビリッと紙を破り取っていたようだったが、私はその頃にははっきりと何が起きているのか認識できずにいた。
 終業のベルが鳴った途端、その女性は「おじさん、サンキュ。またね。」とだけつぶやいて、自分のカバンをひったくり、まるで何かに追われているような勢いで走り去っていった。彼女がいなくなったあとも、彼女の香水の匂いは辺りに染み込んで根強く残って、私は我に返るのに、それから三分間以上の時間を要した。

四、
 次の日、私は前日よりも十分早く家を出た。
 これは昨日よりも十分早く教室に着いて、ゆっくりと好きな席を選ぶつもりでいたからだ。この十分が功を奏して、私はまだあまり人の集まっていない段階で教室に入ることができた。まるでこれから土地でも買うような真剣さで、私は教室の様子を一番後ろから腕を組んでじっと見渡す。
 無論、昨日と同じ場所は論外である。あのあと、バスに乗って家に着いて背広を脱いでも、まだあの女性の香水の匂いがまとわり付いていた。あんな奇抜な経験は一度で十分である。
 けっきょく私は昨日座っていた教室の右側半分全部を避けて、左側中央で群がっている大学生らしい一団のすぐ前に席を取った。この位置ならびっしり固まって座っている大学生達が壁になって、教室の後ろからでは私の姿は見えないはずだ。
 自分が選択した席の位置に満足した私は、授業の始まりをしばし待ちながら、考え事にふけっていたため、始業ベルが鳴るころにはすっかり昨日の女性の存在そのものを忘れていた。――だから、突然あの殺虫剤のような臭いが鼻に届いたときの私の驚きはいかばかりのものか想像がつくと思われる。
 「ああ、おじさん。」
 教室の左端を下ってきた例の女性は、ふとこっちを見て、私の姿を発見して笑顔になった。私は思わず目を背けたが、女性はただの一言の断りもなく、当たり前であるかのように、私の横へ腰掛ける。私はあっけにとられたまま、ベンチの内側へと押しやられ、何か流行りの歌らしきものを口ずさみながら、カバンから鉛筆を取り出す彼女を見ていた。
 「うわちゃあ。また紙、忘れちゃったよ。」女性はサッと私のノートを取って、「もらうね、おじさん。」と言いながら昨日と同じようにノートを引き裂いた。――いや、昨日と同じではなかった。どうやらこの女性にもいくらかの学習能力が備わっているらしい。今日は初めから二枚破り取っていた。
 同じころ、始業のベルが私の意識の届かないところで鳴り響く。
 詰まるところ、二日目も一日目と大差なく過ぎていった。――五分ごとの質問。(驚くことに彼女は『易しい』も『否定』も読めなかった。)唯一違ったのは、二枚では足りなかったらしく、彼女が三枚目の紙を私のノートから再度破り取ったことぐらいである。
 手話教室に通って二日目。私はまだ何一つ手話を覚えていなかったが、ノートだけは半分近く使い切っていた。

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