一、
「今日から私はまた生徒になるんだよ。」 妻の美津江に語りかける時の自分の声が私は一番好きだ。四十年以上も前、まだ私が学生だった頃に美津江に会った時、美津江よりも先に、美津江といる時の自分が好きになった。夫婦になってから三十六年が経った今も、それは変わっていない。美津江もいつもと変わらず、穏やかで屈託のない、まるで小さな女の子のような微笑みを浮かべて、黙って私の言うことを聞いてくれていた。
「六十の手習いだ。おかしな話だろ。」口に出しながら、自分のやる気に驚いていた。「正直なところ、緊張しているんだ。」 暖かい冬の一日だった。ベランダのガラス越しに差し込んでくる柔らかい光は、すでに長く住み慣れたこの家の一部と化している。光だけではない。古くなった畳の匂いが混ざる部屋の空気も、今では欠かせない我が家の一部だった。私は座布団に正座したまま、若く見えるようにと選んだつもりのネクタイを直して、もう一度ゆっくりと妻にほほ笑みかける。妻も相変わらず黙って微笑んでいるだけだった。
「そろそろ出掛けなければ…今日は久し振りに遅くなるよ。」 妻の微笑みだけは若い頃から少しも変わっていない。いつも私が大学へ出かける時、見送ってくれたのがこの微笑みだった。そして、もちろん帰ってきた時も迎えてくれるのはこの微笑みだった。
座布団からゆっくりと立ち上がる。ためらいを空気の重さとして感じた。しかし、いつものように、一日として変わらなかった美津江の笑顔に助けられて、今日も玄関へと向かう。振り返りながら、出掛けに一言、妻に残した。
「では行ってくるよ。」 居間の仏壇の真ん中で、線香の煙に包まれた妻の美津江の写真は、生前と変わらない笑みで私が出掛けるのを見送ってくれていた。 二、
手話教室のクラスルームは私が想像していたよりずっと広くて、混んでいた。 新聞の片隅に見つけたほんの数行の広告を頼りに入学したので、てっきり寂れたビルの一室で先生一人に対して、生徒三人ぐらいで行う小規模なものを想像していた。しかし、驚いたことに教室は私の大学のそれと同じぐらいの大きさで、汚れていない分だけ質でも勝っていた。大学の教室との唯一の違いは生徒の年齢がまるでまちまちだということだけである。大半を占めているのは主婦と思われる中年女性たちで、そのほかにも私と近い年齢であろう、仕事を退職して暇を持て余している男性たちも目立った。若者もちらほらいた。中には中学校からの帰り道と思われる学制服姿の女の子もいる。『手話ブーム』であるというのも、まんざら嘘ではないらしい。
私は最初の戸惑いから冷めて、教室へ入った。教室の一番後ろから入るのは久しぶりの経験である。いつも教卓の横のドアから入りなれているので、少し懐かしくもあり、新鮮でもあった。なるほど、教室の最後尾から見ると先生はあんなに小さく見えるのか、と新たな発見もする。ためらいがちにやってきた手話教室だったが、ここに来て少し心が軽くなるのを感じた。この日のために新しく買いそろえてきた大学ノートと、筆記用具の入っている筆箱が、なぜか私の老いた心を不思議と高揚させている。『新しい』という形容詞と出会ったのは何年ぶりのことだろうか。失っていたと思っていた気持ちだっただけに、微笑みが思わず口もとに浮かんだ。
何重もの壁の奥に閉じ込めていた二十代の私が、胸の内でノックするのを感じる。あの頃はまだ美津江の名前すら知らなかった。彼女が大学の近くの食堂で働いていることを知ってから、毎日そこへ通うようになったのは、すでに卒業を三ヶ月後に控えたころだったはずだ。昼休み、食堂へ向かう時の、あのなんとも言えないときめきをふいに思い出してしまう。歩幅がいつもより少し広がるのを感じて愉快だった。
教室内は授業前独特の雑然とした雰囲気にあった。ところどころにここで知り合って友人関係になったと思われるグループができている。私が入ってきても、教室が静まらないことが変におもしろかった。今日からは私もこの雑然とした雰囲気の一部になるのだ。
いつも学生にはなるべく前の席に座るように言ってきたので、私は自分の忠告に従うことにした。とは言え、最前列の辺りは大学と違って、おそらく払った授業料を一円でも多く取り戻そうとする中年女性たちによって占拠されていたので、私は前から六列目の右端に席を取らざるを得なかった。腰掛けた椅子も、やはり大学の教室と同じ横長のプラスチックのベンチで、私が座っているベンチの反対側の端には会社帰りのサラリーマン風の男性が先に座っていた。思わず目が合ったので、私は笑顔で会釈する。向こうも丁寧な会釈を返してきた。ここに来る途中で感じていた不安がまた少し薄らぐのを感じる。 授業が始まるまでの十分間、私は机の上にノートと鉛筆を準備して、静かに学生気分を楽しんだ。私が学生時代に授業を受けた教室はもっとずっとおんぼろで、これほど清潔でも快適でもなかったが、そこに漂っている空気だけは同じだった。静かに響く空調の音に耳を閉ざせば、まったく同じと言えなくもない。これから新しいことを学ぶのだ。机の上に用意された真っ白のノートがそれを私に繰り返し語りかけてくる。こんな気持ちは久しく忘れていたものだった。十分間がひどく待ち遠しくさえ感じられた。
始業のベルと同時に先生はやってきた。大学ではめったにお目にかかれない光景である。たいていの同僚は始業ベルを教職員室で湯呑を置く合図としてとらえていた。私は姿勢を正して、おそらく三十代半ばであろう、眼鏡をかけた男性が教卓につくのを見守る。私の『先生』だった。不思議な興奮を抑え切れない。年柄もなく緊張してしまう。血圧が上がっていないかどうかが心配だった。
「みなさん、こんにちわ。」先生が教卓に手をついて、挨拶と共に一礼する。私もつられて頭を下げた。ほかにも前列の方の中年女性たちが何人か同様につられている。
「今日から新学期です。――私は初級手話の二部を担当する小林です。」 私がその名前を大学ノートの欄外に書き留めようとした、正にその瞬間だった。まったく突然、私の右側へ誰かが飛び込んできた。私はびっくりして危なく声を出しそうになったが、その前に飛び込んできた若い女性の容貌を見て石のように固まった。およそこの世のものとは思えないほどの派手な服装に、まるで鎖のように体中にジャラジャラとつけたアクセサリー。そして、本来は黒だったと思われる髪は、とても私の貧困な色の知識では形容し難い色に染められていた。
「おじさん、悪い。ちょっとつめて。」その女性はそう言いながら、私をお尻で奥に押し込んで、となりに強引に腰掛ける。ここまで駈けてきたのか、女性はゼエゼエ言っていた。私は自分のノートと筆記用具をあわてて確保することだけで必死だった。
女性はまだハアハア息を切らしながら、教室中に響き渡るジュポンという音で、持っていた缶ジュースの蓋を開けて、ほとんど垂直にカンを口にあててゴクゴクと一気に中身を飲み干した。それから両手両足を思いっきり伸ばして「ハーッ。」と一息ついてから、これまた大きな音で鞄を机の上にドンと置いた。教卓では先生も一瞬しゃべるのを止めて、咳払いをしてから続ける。前列の中年女性たちが揃ってこっちを睨んでいたが、女性は一向に気にならない様子で、鞄の中を何やらガチャガチャと漁っていた。
私はこの隙に右の方へずれて逃げようとしたが、その女性は「うわちゃあ。」という意味不明な言葉を発して顔をしかめた後、ふいに私の方を向いた。私は再び石像のように固まる。次の瞬間、女性は私の前にある四本の鉛筆に視線を下ろして、「おじさん、これ一本貸して。」と、私が何か反応できる前に一本をひったくってしまった。
「あと、紙も。」 女性はさらに私の大学ノートも奪うと、私が唖然と口を開く前でその最初のページを付け根からビリビリと破りとって、笑顔で残りを私に返した。
「はい、サンキュ。」 私は黙ってそれを受け取るしかない。女性は長い髪をバサッと肩ごしへ後ろへ送る。意識が遠のくほどのきつい香水の臭いが辺りを包み込んだ。一列前の席の人がむせて、咳ごんでいる。
私はと言うと、授業のこともすっかり忘れて、大学ノートをまだ手に持ったまま、その女性を呆然と見ていた。長い間生きてきたが、私が見たことのある生物ではなかった。
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