忘れる。なんでも忘れる。
 最近特にひどくなったが、昔からとにかくなんでも忘れる癖があった。もっともひどいのは傘で、忘れたものをすべてつなぎ合わせれば日本の国土ぐらいの面積になると思う。極端な例ではコンビニで傘を買おうとして、レジに持っていく前にほかの商品棚に忘れたというのがある。外に出て、雨に濡れながら、何でコンビニに入ったのか思い出そうとしているのだから頭が悪い。
 小学生の時、あまり頻繁にぼくがものをなくすので、母親が一計を案じてあるアイディア商品を買ってくれたことがある。誰が考えたのか、それはセンサーとレシーバーのふたつのパーツから成る機械で、センサーの方は小さなコインのようなものだった。それをお金と一緒に財布の中に入れておくと、万が一財布をどこかへ置き忘れても、数メートル離れれば、レシーバーがそれを感知して鳴り始めるという寸法だ。母親もこの装置を持たせたことでやっと安心したのか、それだけにぼくが財布と一緒にレシーバーも忘れてきた時には真剣に怒っていた。
 とにかく空想癖がひどかったので、子供の時などは五分も放っておかれるとあっという間に空想の世界に入り込んでいた。デパートでエスカレーターに乗ると、下に着いた頃には古い炭坑に降りていく作業員になっていたし、乗っている車は宇宙船に化け、滑り台はロボットの操縦席への搭乗口になり、背後からはいつも組織の刺客が迫っていた。(たいてい正体は母ちゃん。)想像に身を任せて、よくケガもした。小学校五年の時には非常に危険な方法でベッドは反重力トランポリンではないということを知った。身をもってニュートンの正しさも確認した。正確には小学生の間だけで三度確認した。
 とにかく、こんな調子でいつも夢うつつなので、歩いていてどぶにはまるのなど日常茶飯事である。ひどい時にはそのままどぶの中を歩き続けてしまう。
 人の誕生日を忘れてしまうならともかく、自分の誕生日もよく忘れる。忘れるならまだいいのだが、違う日を誕生日だと思いこむからたちが悪い。――以前、真冬に友達にプレゼントを贈ったことがある。その友達が七月が二十一日が誕生日にもかかわらずである。その人は雪の降る寒い日、突然得体の知れない贈り物(しかも、「ハッピーバースデー!冬の良き日に!!」と書かれた)が宅急便で届いて、間違いなく郵便爆弾だと考え、危うく警察に通報しそうになったらしい。
 ほかにも物忘れに関しては無数に失敗がある。大学に入った頃、不動産屋にアパートを借りに行って、契約書に大学名を記入しようとしたところ、どうしても自分の大学の名前が漢字で書けず、不動産屋に尋ねたところ、偽学生かと怪しまれて学校に問い合わされた事もある。試験の日に教室の部屋番号を忘れて試験の間中学校を探し回って単位を落としたこともあるし、人の車を自分の車と間違えて、無理矢理鍵を突っ込んでドアを開けようとした上、開かないのでドアを蹴りまくっていたところを後ろから持ち主に羽交い締めにされたこともある。時としては、運転中に考え事にふけっていると、どっちのレーンが自分のレーンか忘れて、ふと前からヘッドライトがくるのを見て、不思議に思ったりする事さえあるほどだ。
 今までやった忘れもので最強のベスト3を挙げるならば、以下のようになるだろう。
 まず3位だが、議論の余地はあるものの、頭の悪さ加減で言えば、やはり中学生の時、窓を開けたのを忘れて、窓ガラスにもたれかけ、危うく三階から転落死しそうになった時ではないだろうか。あの時、とっさに腕をつかんでひっぱってくれた命の恩人のKくん、ごめん。うそをつきました。――あれ、ボケじゃないです。
 これでまだ3位ということが怖いが、2位はある意味、もっとひどい。
 大学受験の時、試験会場で自分の名前を忘れた。
 いざ答案が配られて、記入しようとした時、ふいにどうしても自分の名前が思い出せなくなった。「向山」までは思い出せるのだが、その下がいくら考えても出てこない。普段、「テディー」というあだ名か上の名前でしか呼ばれたことがないので、ふと考えるとこの数年、自分の名前を聞いたことがなかった。たしか「なんとか彦」だったと思ったのだが、妙に自身がない。途中で一回「昭彦」と書いて、なんか違うなあと思ったりした。しかし、時間が過ぎて行くにつれて、これは真剣にまずいことに気付いた。下手をしたら替え玉受験だと思われ兼ねない。さすがに「自分の名前、ちょっと忘れちゃって」と言っても、信じてくれないだろう。けっきょくさんざん考えた末にふと受験票に名前が書いてあることに気がついて、試験終了五分前にそれを書き写した。「ああ、そうそう。貴彦だよ、貴彦。思い出した、思い出した。」
 頭が悪すぎる。
 さて、肝心のベスト1なのだが、これが最強である。おそらく世界一の忘れ物だと思う。もうこれを聞いたら一生忘れない。自分でも思い出すたびに笑い転げてしまうほどだ。
 その最高の話でこの回をしめくくろうと考えていたのだが、これを書いているうちにそれがなんだか忘れてしまったので、またの機会にでも。

1999/9/17