「現実的な空想」
あらきへ
硝子や水面に写るもうひとつの世界。あらきの写真は幻想的で本当にこちら側に近しい別の世界を想像させてくれます。ひとが大人になるときの境目のひとつに、「空想」を離れ「現実」のみを見据えるようになったとき、があげられるのも頷けると思う。自分にとっての「あのとき」はいつなのだろう。過去のことなのか、これからのことなのか…。
「空想」にはいろいろあって、子供のときに自由に遊ぶ「空想」とはちょっとちがう種類の、大人だからこそ感じられる「空想」があるように感じます。子供のときは「どこに冒険しよう」とか「将来なにになろう」とか未来のことを自由に空想し、夢みます。でもだんだんと大人になるに従い、子供のときに空想していた未来が「いま」であることを実感してゆく…。そして今の自分について考え、過去の自分について振り返り、未来の自分について予想し、しばらく客観的に自分の人生についての「空想」にふけることは誰でにでもあるのではないでしょうか。
人は節目節目で選択をせまられます。「ここの学校に入る」「この人と友達になる」「ここで仕事をする」「この人と結婚する」…。そのときの選択によって未来は否応なしに変わってきます。自分の選択を振り返り、「あそこの学校に入っていたら今頃どうなっていたのか」「あの人に出会いさえしなかったら…」「ここで仕事をしていなかったら…」などと、今とは違う現実をもたらしていたかもしれない「あのとき」のわかれ道について意識させられるかもしれません。
「現実」にとらわれて頭の凝り固まっている大人でさえも、いや、長い道のりを歩いてきた大人だからこそ豊かにひろがる「空想」もあるような気がするのです。
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冬空に裸の幹をあらわにさらけ出す木々を見て、なんだか人生のようだと感じることがあります。
ある人が本当に歩んだ人生は、一番先にある細い一本の枝から幹へと続く一つの道なのだけど、実はこの木のように(実際には無限の)道があり、可能性があるということ。
節目にある契機によって枝分かれ、人生は進んでいきます。一番先の細い枝は、その手前の枝があったから存在するのであり、その手前の枝はまたその手前の枝、そして幹があったから存在するのだ…という当たり前の事実は、まさに人生の流れそのもののような気がします。
時代の流れや自分の選択によって一つの道を選んできて今があるけれど、それは多くの枝のうちのひとつであり、これからいくらでもその枝はいろんな方向に延びることができる…。手前の節目によってぜんぜん違う方向をむいている枝になっていたかもしれないけど、その枝と同じ方向にこれから延びることだってある…。
誰にでもある自分の人生という「木」について空想することで、アラキの言っていた子供から大人への移行という「あのとき」を探ることもできるかもしれません。ちょっと現実的な「空想」だけど、こういうのを楽しめるのもある程度年を経た「木」だけに許される特権だものね。
それではまた来年に…。
かおり |
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