「あのときかもしれない」

  かおりへ

 銀杏ってどうしてあんなにきれいな黄色になるんだろうね。銀杏の落ち葉がたくさんつもっていると、あのふかふかのところでつい遊んでしまいます。空を見上げれば、秋の空、寒々とした銀杏。うーん、この季節だけに感じられる幸せですな。

  かおりの写真では壁と対比させたり、硝子に映ったところを撮ったりと、銀杏の黄色をさらに際だたせていてすてきでした。私は特に壁の質感とか好きだったんだけど、ひっかかったのは硝子に映った方かなあ。視点をずらす、という書き方をしていたけど、硝子やら水面に映った世界というのは、そこにこことは異なる世界、を映し出すようでいて、視点の異なり以上に物事の広がりをみるようでもあります。子供のころ、鏡の国のお話とかあったけど、もうひとつの世界とか、そういう想像に自分を連れていってくれるような。子供の頃ってそういう世界に割と近いような気がしていたけど、大人になるとめっきりそういう感覚ってなくなってしまうように思う。
 思えばあのここじゃない世界とに近しい感じというのもなかなか不思議なものがあったけれど、そういう感覚というものはどこで失われていくんだろう。今ちょうど長田弘の「深呼吸の必要」というのを読んでいるんだけど、ちょうどその中に、人がおとなになるときの境目はいったいいつなのか・・・・「あのときかもしれない」、という詩があるの。その「あのとき」っていうのには、例えば、「歩く」という動作の意味が、自分にとって、自由を求めて冒険することから、ただ移動する、という意味になったとき、とかがあるんだけど、鏡の向こう側のような、自由な空想の世界を身近に感じることから、そんな世界は存在しないと現実のみを見据えるようになったとき、っていうのも「あのとき」なのかなあ、と思います。

 写真というのは不思議なもので、今ただ単に色がきれいと思ってとった硝子や水面に、そういう子供のころに感じていた、鏡や硝子、水面の向こう側の、別の世界を映し出してあったりするのが撮れたりします。硝子戸や水面に映った、懐かしいけど未知で、子供時代と今が交錯するような場所。 写真を撮ることで、自分が今持っていない、使われなくなった引き出しとかがすっと開いたりして、なかなか面白い。人が持つあらゆる面を引き出す、そういうのが写真に惹かれる要因なんだと思います。こうして少しずつ自分の内側を探索していくこと、それがささやかな表現なのかなあ、と思ったりします。
 
  それでは、また次回に。

                アラキより

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