秋に思う

「花見? 花見って、何が楽しいの?」
小学校の時、家の上の高台で花見をしようと提案してくれた母親に対して、ぼくが言った言葉だ。ひどい言い方だけど、まあ、小学生の男子が「花見」に持っている意見の大多数はカバーしていると思う。

そう。あの頃は桜を見て何が楽しいのか、まったく分からなかった。「だいたい桜って花じゃないじゃん。木じゃん」みたいなことを言っていた、実にいやな小学生だったと思う。おまけに時代は昭和。花見のお弁当と言えば、いなり寿司とか、かんぴょう巻がメインで、運が悪ければ卵焼きさえ入っていない始末。焼酎だけあれば満足のおじさんたちはともかく、唐揚げひとつ、ウィンナー一本も入っていない弁当だけで、何時間も桜の木の下にいるなんて修業か!——というのがぼくの当時の素直な心境だった。それでも大人たちは何かにつけて、花を見に行こうと高台の公園にぼくら子供を連れて行った。チューリップかられんげまで、なんでも見に行く。やっと夏が終わって、たいていの花が枯れて安心していると、今度は紅葉を見に行こうと言い出す。「あれこそ花でもなんでもないだろ。枯れ木じゃん」というぼくの意見はいつも軽くスルーされた。

それからの人生でも、何度か花見には行った。いずれも自分から喜んで出かけたわけではなかったが、平成に入ると花見の弁当もずいぶんよくなったし、東京に出てきてからは花見の名所に行けば、屋台や催し物もやっていたので、そこそこ楽しめるようにはなった。それでも、見ているのはいつも下の弁当の方で、上の桜には目もくれず帰ることも多かった。その頃のぼくの解釈は:「みんなきっと桜なんかどうでもいいんだな。集まるための言い訳なんだ」というものだった。

たぶん桜を初めてちゃんと見たのは二十代の後半になってからだったと思う。
花見の途中にふとレジャーシートの上に寝転がってみた。すると、わずか2メートルほど上空が桜の花びらでいっぱいになった。さらさらと揺れる淡いピンク色の花びらの向こうに、高く広がった青空がどこまでも続いていて、じっと見ていると吸い込まれそうだった。そよ風が吹く度、桜の花びらが頭上を舞い散って、ヒラヒラと地面へと落ちていく。こんなささやかな風でさえ、散るほど儚い花びらだった。

そうか。この桜は今しか咲いてないんだな、とふと思った。
来週ここに来て寝転がったら、もう桜はないんだなと思うと、なぜか急にその光景がとても愛おしく感じられた。そして、それと共に、そこに平和に寝転がっていられること、周りに一緒に桜を見てくれる人たちがいること、そして、移り変わりながらも平穏に続いていく毎日がすべて、とても愛おしく思えた。

その頃から花見では、やっと上を見るようになった。
思えば、きっとあの頃、初めて自分が年を取っているという実感を得たのだろうと思う。今まであまり気付くことのなかった四季の移り変わりや、時の流れを感じられるようになって、「桜の季節」も感じられるようになった。——そうして温かな春の日差しの下で桜を見ることは、かつて暖房もまともにない厳しい冬を過ごした世代には、どれほど安心感のある、ありがたい光景だっただろうか。桜を好きになるのも当然だ。
子供の頃は「冬」って言ったら、「クリスマス→プレゼント、冬休み→自由、お正月→お年玉=パラダイス」という図式しか頭に浮かんでいなかったので、たぶん外が寒いということにも微妙に気がついていなかった気がする。(あの頃の小学生の男子というのはそれぐらいバカでした。)今ぐらいの季節になると「やだなあ、寒いなあ」と思う年になったから、春の日差しをありがたく思えるようになったのだと思う。

春の花見からさらに過ぎること十年。最近は紅葉もきれいだな、と思えるようになった。ぼくが小学生の頃、大人たちが見ていた景色と同じものが、やっとぼくにも見えるようになったのかもしれない。
そうなってみて、初めてあの頃の花見の意味が少し分かる気がした。きっとお酒やいなり寿司はどうでも良かったのだろう。食べ物も、飲み物も、なくったってよかった。大人たちはただ、今年もまた無事にみんなが元気で、季節を一周したことを祝いたかっただけなのだろう。

黄色に染まったイチョウ並木を見上げながら、そんなことをぼんやりと考えた。

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