九十九回のリアリティー

【事例1】

問題:
ヒーローとヒロインが悪玉に捕まる。ヒロインが生け贄等、あり得ない危険に巻き込まれ、それを縛り付けられたヒーローが為す術もなく見せつけられる。

解決策:
ヒーローは手足を結んでいるロープをたまたま手近にあるもの(ガラスの破片、ライターなど)で切って、土壇場で反撃。ヒロインを救う。

悪玉の反省点:
やっぱりヒーローを捕まえたその場で殺しておけば良かった。

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【事例2】

問題:
追い詰められたヒーロー。必死の反撃を試みるも、相手は圧倒的多勢。追い詰められて武器も尽き、いよいよ絶体絶命。現れた悪玉はヒーローに銃を突きつけて自分の手の内をすべて説明したあと、「そろそろ消えてもらおうか」などと吐き捨てて銃を撃とうとする。

解決策:
間一髪でヒーローの仲間が駆けつける。もしくは親玉とその部下を巻き込むなんらかの天変地異が起こる。ヒーローはそのどさくさに紛れて逃げ出した相手の親玉を追いかけ、一対一で親玉を倒す。

悪玉の反省点:
次からは「わはははは」と笑う前に撃とう。

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【事例3】

問題:
親玉がヒーローの家族を人質にとって、ヒーローに武器を捨てるよう要求する。絶体絶命の中、ヒーローは苦渋の選択を迫られる。

解決策:
捕まっていた家族の中でもっとも反撃しそうもない者が勇気を振り絞って反撃。ふいを突かれた悪玉がひるんだ隙にヒーローが悪玉を退治。家族はヒーローの仲間に救出される。

悪玉の反省点:この手の映画を見ていれば分かっていたパターンなのに!

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以上が昭和のアクション映画で極めてよく見られる山場の典型的な三事例。

当時は基本的にこの三つのシーンを20分ごとに入れて、間を何かで埋めればアクション映画として成り立った時代である。しかし、ポスト911の時代、これらのシーンは概ねアクション映画から姿を消した。どうやら同じパターンで何度も倒された悪役たちも、やっと反省点をのみ込んだのか、無意味に人質を取ったり、ヒロインをアグラ=アッパラーの神に生け贄に差しだす、などの無謀な行為に出なくなった。それにヒーローを縛って放置する場合には、周りに何かあからさまにロープを切れるものがあるかどうかもチェックするようになったみたいで、さすがに都合良くガラス片が落ちていることも少なくなった。

今のアクション映画では善人が撃ち殺されたりすることも当たり前だ。ヒロイン自身が撃ち殺されることもそれほど珍しいことではなくなった。作戦は失敗するし、人質は死ぬし、ヒーローは間違えて民間人を撃つ。仕掛けられた爆弾は残り007秒で止まることなく爆発し、テロリストの思惑が成功してしまうことも往々にしてある。
ギリギリのタイミングで仲間が飛び込んでくるという偶然がないことを、今の世界はよく知っている。とられた人質が生きて戻ることはめったにないことも強く実感している。主人公のためだけに天変地異を起こすほど暇な神様がいないということも常識だ。

でも、昭和のアクション映画を作っていた人たちだってそれは分かっていたはずだ。たぶん、百回そういうシチュエーションがあれば、九十九回は助からないことを知っていても、あと一回は奇跡が起こるかも知れないと考えていた。だから、その一回を映画にしていたのではないだろうか。映画とは、そういう希望のあるものだったのではないだろうか。
今のアクション映画はリアリティーを重視する。99%の方を描くことを信条とする。でも、それは果たして本当に正しいことなのだろうか。ぼくらは百回のうち九十九回起こることの方を映画で観たいのだろうか。

毎日のニュースを見ていると、九十九回の方の出来事が連日放送される。これを見ていると、放送されずにすんだ一回の方があることをついつい忘れてしまう時もある。でも、きっと現実の世界でも、「待たせたな!」と言いながらギリギリ駆けつけてくる援軍は今だっているはずだ。「待ちくたびれたぜ」と言いながら、反撃に転ずるヒーローも、まだまだ健在であってほしい。

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