Archive for 9月 2005


お寿司のある風景

9月 24th, 2005 — 9:43pm

今でこそ全国にレベルの高い回転寿司店が立ち並んで、お寿司というのは必ずしも高価な食べ物ではなくなってしまったが、少なくてもぼくが小学生の頃にはまだなかなかお目にかかれる食べ物ではなかった。
だいたいお寿司といえば、いなり、かんぴょう巻き、太巻きあたりがせいぜいで、せいいっぱい奮発しても、向こう側が透けて見えるえびが一枚乗ったちらし寿司が関の山だった。町内会の集まりで「今日はお寿司が出る」という噂が駆け巡った夜に、お皿に並んでいたのはかんぴょうと卵焼きと細いきゅうりが巻いてあるだけの巻きずしだったし、入院している時に献立表に「お寿司」と書いてある日があったので、楽しみにしていたら、酢飯の上に錦糸卵と桜でんぶが散らしたものが出てきたりした。
とにかく「お寿司」に関する限り、必ずといっていいほど期待を裏切ってくれる時代だった。
だから、「小僧寿し」という小さな店がジャスコの前にできた時も、別にさして気にも留めなかった。小学校三年生前後ぐらいの時期だったと思う。ファーストフードのような店構えができていくのを見て、束の間、マクドナルド下関1号店を期待したりもしたが、店名が漢字なのを見た瞬間、素直にあきらめた。
ところがしばらくすると、学校の友達や、近所のおばちゃんの間で妙にこの「小僧寿し」という名前を良く聞くようになった。そして、さらにそれに伴って、「手巻き」というあまり聞いたことのない単語も耳にするようになった。すでに体験した友達の間では「シーチキン巻き」というのが大変に評判が良かったのも憶えている。なんでもそれはマヨネーズ味なのだという。また、「えびきゅう」という、これまた聞いたことのないものも話題に登ることが多かった。こちらもマヨネーズが入っているということだけしか分からなかった。
今となっては、巻き寿司にマヨネーズを入れるのなんて、照焼ソースのハンバーガーと同じぐらいありきたりな存在になってしまったが、海苔巻きにマヨネーズという発想は、当時は衝撃的なものだった。また、今はどこのコンビニでも置いている「手巻き寿司」という独特のパッケージも、当時は何か不思議な魅力を持っていたのも確かだ。
町内会の干からびた海苔巻きぐらいしか寿司体験のない当時のぼくだったが、それでも徐々に「小僧寿し」への興味は広がっていった。しかし、新しい情報に疎いうちの両親が小僧寿しの存在に気が付くはずもなく、我が向山家の食卓に手巻き寿司が到来するにはまだかなりの月日が必要だった。
そんなぼくの元に、手巻き寿司は意外な形で訪れた。
当時のアパートの隣室に住んでいたWさん一家が上のお子さんの誕生会に招待してくれた時のことだ。人のプレゼントを勝手に開けてぼくらが遊んでいると、Wさんのお父さんが「ごはんだぞー」と言いながら、何やら大きな袋を抱えて仕事から帰ってきたのである。お父さんはぼくらの前で袋を炬燵の上に逆さまにして、中からたくさんの細長い包みを取り出した。一斉に子供たちから歓声が上がる。ぼくはそれが何か微塵も分かっていなかったが、男の子の性で、とりあえず一緒になって「やったー、やったー」と喜んだ。
どうやらぼく以外のみんなはそれが何か分かっているらしく、さっさと一本ずつとって、器用にビニールをはがし、中のごはんの固まりを転がしている。「説明を読む」というのは小学生の男の子にとって、屈辱的な行為だったので(「誰かに聞く」に至っては死ぬ方がましなことだった)、とにかく見よう見まねで「それ」をビニールから取り出した。醤油をつけておそるおそるかぶりついてみると、なんだかおいしい。それが何かさっぱり分からなかったけど、おいしかった。
実はこの頃、ぼくは生魚というのが一切だめだったのだが、この時、適当に取っていたのは鉄火巻きだった。普通なら生のマグロなど吐き出してしまっていただろう。——ところが、そのあまりに奇妙な形状にぼくはよもや巻いてある赤いものが生の魚だとは夢にも思わず、先入観なく食べたので、普通においしく食べてしまった。あとでこっそり「これ何?」ってWさんとこのおばちゃんに聞いたら、おばちゃんが「てっかまき」だというので、いっしょうけんめいその名前を憶えて家に帰った。
そして、次の日、「夕ご飯、何食べたい?」と聞かれたぼくは、母親にためらうことなく「てっかまき」と答えた。
そんな名前がぼくの口から出て来たことに驚きを隠しきれない母は、何かの間違いだと思って、ぼくに聞き返した。
「うそでしょ?」
「うそじゃないもん!」
「もう一度言ってみて」
「てっかまき」
「それって、生のお魚だよ」
実はこの時、ぼくは内心ものすごい衝撃を受けていたのだが、そこは男の子——一回、胸をはって言ったことを取り消せるはずもなかった。それで「し、知ってるよ!」と言ったあと、部屋に戻って鬱になったりした。
おそらくこの日、もし母親がぼくの言葉を真に受けて、スーパーでマグロの刺身を買い、家で細巻き寿司を作っていたなら、ぼくはやはり気持ち悪がって食べていなかっただろう。でも、賢明なうちの母はぼくの態度に不審な点を感じ、すぐにとなりのWさんのところへ昨日のことを聞きに行ったらしい。
かくして、その日の我が家の食卓に初めて小僧寿しが登場し、家族揃って新しい寿司時代の到来を祝った。
以来、今日までぼくは小僧寿しの大ファンである。関東では「京樽」というチェーン店の方が幅を利かせているが、ぼくは足繁く近所にある小僧寿しを目指す。何しろ、あの頃のぼくに生の魚を食べさせておいしいと思わせることができるような店は偉大な店だと今でも思っている。

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病院の話・裏

9月 21st, 2005 — 12:26pm

岡山の病院にセブンが見舞いに来てくれた話。
それから二十年後のセブンが当時の状況を逆の視点から個人サイト「寿少年」(9/21)で語っています。興味のある方は読んでみてください。今初めて明かされる、ぼくも知らなかった新事実が続々!……って、フライング、途中で帰るなや! ちょっとでもおまえを善人風味で描いてしまった自分に腹が立つわ!
ちなみにそのフライングが現在何をしているかというと、下関支部長たこすけ(日々の足跡 9/20)のブログによれば、どうやら東京からバイクで下関に向かっているらしい。
基本的には何も変わってないです。このあたり。バカばっかり。

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まだ窓の向こうを憶えている

9月 16th, 2005 — 11:15am

ここ二日ほど15歳の時に入院していた岡山の病院の話を書いた。
なんで突然この話かというと、実はここ最近高校生のキャラクターを少しでもリアルに描きたいという思いから、高校生の書いた日記形式の出版物ばかり探して読んでいたのだが、その中に闘病記のようなものが少なからずあったからだ。もうすぐテレビドラマ化も予定されている「1リットルの涙」という作品が特に印象的で、その文中に出てくる病院の記述や、そこで過ごす寂しさが痛いほどよく伝わり、当時のことを思い出さずにはいられなかった。
当時、ぼくは腎臓病の長期治療のため、高校を辞めて、岡山にある専門の病院へ入院していた。最初は三ヶ月ですぐに社会復帰するはずが、効くはずのクスリがちっとも効かず、次々にいろんな療法を試していくうち、入院期間は四ヶ月、半年と延び続け、ついには宛のない、いつ終わるとも知れない入院生活になってしまった。腎臓病というのは相当重傷であっても、自覚症状はだるさぐらいしかなく、特に15歳という若さではほとんど健康な状態と変わらない。それだけに当初は自分がなんでこんなところにいるのか良く分からず、ただ医者や看護師の指示に従って、茫漠とした日々を過ごしていた。
その病院は郊外にあるため、近くには国道が一本走っている以外何もなく、周辺はひどく寂しい場所だった。デイルームが全面ガラス張りで、そこから一帯が見渡せるのだが、見える範囲にはオートバックス一件と古びたラブホテルぐらいしかない。ただただ何もない、見知らぬ土地が遠く山々まで続いているだけ——半径200キロ以内に知り合いは一人もいない、本当にたった一人の入院生活だった。
毎日毎日、するごとがなくて、仕方なくそのデイルームのベンチに陣取り、ルーズリーフに小説を書いていた。入院した時にはまだ少しほろ寒かった外の日差しは徐々に強くなって、行き交う人も半袖となり、デイルームにはクーラーが入るようになった。月日は容赦なく過ぎていき、やがて秋の日差しとなり、山の斜面が黄色や赤に染まり、いつしか雪が窓の外を舞っていた。完全な冷暖房の施された窓のこちら側はそれでもいつも同じ温度で、年中同じパジャマを着ているためか、その移り変わる景色から取り残されたような思いがしていた。近くで建設していたビルは入院当初、土台しかなかったが、季節がもう一度暖かくなり始める頃には、すっかり完成していたのを憶えている。
友達はみんな高校へと進み、いろんなところでそれぞれにがんばっていた。義務教育という垣根を越え、社会へと羽ばたいていく時期。——この頃、良く列車に乗り遅れる夢を見た。その列車は修学旅行の列車なのだろうか、学生服姿の友達や同級生が乗っていて、ぼく一人だけが乗り遅れて、ホームで去っていく列車を見送っているというものだった。まるで長い長い一日が、どこまでも終わることなく続いていくようだった。
何もなかった一年間。でも、その何もない一年は、ぼくにいろいろ貴重なことを教えてくれた。人生には、実は決められたレールもルールもないということ。健康や日常というものが、当然なようでいて、実はどれほど儚く、もろいものであるかということ。そして、この世界には生まれつき体が弱く、生涯を病院で過ごす人々が、実は人知れずたくさんいること。
普段何気なくやっていること——ファミレスに行き、ごはんを食べること……ガソリンスタンドで給油すること……コンビニで買い物をすること……そんな些細なことを病院の窓から憧れの眼差しで見つめている目が、この世界にはたくさんたくさんあること。
先の二通の手紙の話は、どちらもその時期に受け取ったものだ。しかし、この二枚はフライングが出してくれた数十枚の手紙のうちの二通に過ぎない。手紙は「何のゲーム買った」とか、「早く童貞を捨てたい」とか、いつもしょうもない内容だったが、ほとんど毎週届いていた。退院する頃には膨大な量になっていたが、その中で一度としてフライングは慰めの言葉も、同情の言葉も書かなかった。学校で会話していたのと同じ、普通のことを、いつも普通に書いてくれた。
フライング以外にもう二人、スタジオには中学以来の最古参のメンバーがいる。セブンとよーじである。
セブンはある日、突然病棟に電話してきて「今から遊びに行くから」と言ってきた。しかし、彼がいるのは何百キロも離れた山口である。当時のぼくらはまだ高校生になったばかりだ。そんな遠くまで行く電車代などない。何の冗談かと思っていたら、夕方前になって、本当にセブンが現れた。まるで近所に住んでいるかのような軽装である。
何ヶ月ぶりかだったが、「うっす」と普通に病室に入ってきた。どうやって来たのか聞くと、ごまかしていたが、どうもなんらかの方法で新幹線にうまく隠れてきたものと思われる。「おみやげ」と言って、「メルヘンヴェール」というクソゲーも買ってきてくれた。
面会時間が終わると、セブンはまた「じゃ」とだけ言って帰って行った。ずっと後に分かったことだったが、セブンはこの時、病院が駅から何キロも離れていることを知らず、そこまでの交通費を持っていなかった。夕方近くに着いたのは、駅から歩いたからだった。
もう一人のよーじは小学校五年以来の付き合いだが、入院している期間中、たった一枚ハガキをくれた。
一年でたった一枚。これまたしょうもない内容のハガキだった。
その一枚のはがきは二十五年以上の付き合いで、年賀状も、暑中見舞いも送ったことのないよーじが、その時、たった一回だけくれたハガキだった。
よくホームに取り残される夢を当時見ていたと書いたが、退院する頃になって、その夢の内容は少しだけ変わった。
取り残されたと思って振り返ると、そこに連中が座り込んで、みんなでUNOをやっているのである。そして、ぼくにいつもの口調で「何やってんだよ、おまえの番だっちゅーに」と呼びかけてくる。「電車いいのか?」とぼくが聞くと、夢の中のセブンが気軽に「また次がくるって」と返事をした。
いろいろなことを教わった入院生活だった。
今も、時々、デイルームから来る日も来る日も見ていたあの景色が脳裏に浮かぶことがある。
ぼくはまだ、あの窓の向こうを憶えている。

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その翌週

9月 15th, 2005 — 10:21pm

「ハイリ ハイリフレ 背理法」の次の週には封書で「岡山市○○町○—2—23 ○○病院 3棟 314号室 向山奴隷彦様 はい、女王様とお呼び! ぴしっ! ぴしっ!」というエキセントリックな宛名が記された上、わざわざ80円分の切手を一円と二円の切手40枚弱で貼っているために、表一面はおろか、裏まで切手で埋め尽くされた手紙が届いた。ところが、あまりの凄まじい有様に病院の警備室が何かの悪戯だと思い、一旦、差し押さえてしまった。
その日の午後、警備室からの電話でナースステーションに呼び出された。
電話を取ってみると:
警備員「ここにそちらさん宛の封筒だと思われるものが届いてるんですが、ちょっと確認していただいていいですか?」
向山「はい。」
警備員「宛名、読みますよ。」
ものすごい恥ずかしさの数秒間が過ぎる。
向山「……はい。たぶんぼく宛だと思います。差出人、誰になってるでしょうか。」
一瞬のいやな間のあと:
警備員「(努めて冷静な口調で)新・マニラマン3号って書いてありますが。」
向山「ぼくのです。」
フライングからでした。

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いやな思い出を思い出した

9月 15th, 2005 — 12:46pm

昔、入院していた時(当時17歳)にスタジオのスタッフの一人、フライングが送ってきた封筒。
表の宛名は向山「エロエロ」貴彦。
裏には意味の分からない「ハイリ ハイリフレ 背理法」の謎の一文。
入院患者宛の手紙は一旦ナースステーションに届いたものを看護師さんが配るのだが、それを見てから看護婦さんがあまり話しかけてくれなくなった。

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まるで悪夢を見ているよう

9月 8th, 2005 — 11:19am

昨日に続いてハリケーン・カトリーナの大災害をめぐるアメリカの動きを、ネット上の様々なニュースサイトで追ってみた。これらのほとんどの情報はテレビのニュースでは聴かないことばかりだ。
感情的になりそうなので、敢えて個人的なコメントは控えさせて頂きます。
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・ブッシュのテレビ中継の後ろにあった救援ステーションは撮影用のダミーで、撮影終了後、すぐに撤去されたが、アメリカのテレビ局はそのことを知っていて報道していない。(ドイツ、ZDFテレビ)
・ブッシュが上空からヘリコプターで被災地を視察する間、すべての航空機の飛行が停止されたため、救助用のヘリコプターも飛べず、何人もの人が亡くなった。
・コロラドの救援部隊は文字通りハリケーンのすぐ後ろを救援物資と共に走っていて、被災後すぐに現地に到着できるはずだったが、大統領の命令が下るまで動けず、けっきょくその命令は数日後に来た。(イギリス・BBC)
・ハリケーンが直撃して、大災害の一報が入った時、ブッシュ大統領は自分の牧場で休暇中だった。一報が入った後も、ブッシュは休暇を続け、翌日もホワイトハウスへ戻らなかったために救援が大幅に遅れた。この休暇は五週間近くにも及ぶもので、大統領の休暇としてはこの36年間で一番長いものである。ちなみにブッシュは政権中の全期間の20%をこの牧場で過ごしている。
・2001年度にFEMAはテロの危険性と同ランクの危険があるとして、ニューオーリンズの堤防決壊をブッシュ政権に警告しているが、この事業の予算をほぼ全額イラク派兵へ回したため、堤防は増強されないままだった。
・そのFEMA(米連邦緊急事態管理局)のトップクラスのメンバーは災害に関する経験など何もない、ブッシュの選挙スタッフの一部が天下って陣取っている。
・アメリカの複数のブログの目撃情報に寄れば災害発中、ライス国務長官はブロードウェイでミュージカルを楽しみ、テニスに興じ、5番街のフェラガモで数千ドルの靴を選んでいたという。このショッピングを目撃したおばさんが「何千人もの人が家をなくして死んでいってるのに、靴を買ってる場合ですか!」と叫んだところ、護衛の警備員に強制的に排除された。
・諸外国のたくさんの政府、民間団体、企業からの救援物資の申し出があり、その多くは飛行機に積まれて、いつでも飛び立てる準備ができているにも関わらず、アメリカが受け入れないために、ずっと飛行場で待たされている。プライドなのだろうか。なんなのだろうか。(ワシントンポスト)
・元大統領夫人でブッシュ大統領の母親でもあるバーバラ・ブッシュは避難所となっているテキサス州アストロドームの視察のあと、ラジオのインタビューに少し苦笑しながらこう答えた。「ここにいる多くの人たちは、ほら、もともと貧しかったわけでしょ、だから今の状態はけっこういい感じなのよ。」
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この想像を絶する政府を、ぼくらの国の政府は全面的に支持している。そして、アメリカに都合の悪いことを日本のマスコミは極力報道しない。

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学ぶ理由

9月 7th, 2005 — 6:39pm

ショックです。
地元に住む人々のブログや、三大ネットワーク以外のローカルニュースや、小さなボランティア団体のサイトを見て回ると、ニューオーリーンズで今起きている出来事が、どんなに都合良く塗り替えられたものであるかが痛いほど分かります。
いろんな話を読みました。
その中で特に大学生三人の話が印象的でした。彼らは災害から何日経ってもこない救助を待つ人々の姿を見て、ワンボックスカーいっぱいに水を積んで、ニューオーリーンズに向かったそうです。おそらく半分ぐらいは好奇心と悪ふざけの気持ちもあったのかもしれません。プレスの身分証を盗んでコピーした三人は、まんまと監視のゲートをくぐり、町に入りました。何しろ世界最強のアメリカ軍が容易にたどり着けないというのですから、町の中心部には到底行き着けないだろうと考え、せめて町の外周に批難した人々に水を渡そうと思ったのだそうです。
「そしたら、二十分もかからないうちにあっさり着いちまった」という言葉を、学生の一人は怒りと共に述べている。「当局がたどり着くのに三日も四日もかかった場所へぼくらはあっさり着いた。訳が分からない。」
そこで見た光景を学生は一生忘れないだろうと語っている。特に匂いを。それはさながら世界が滅びたあとのようだったと。
学生三人はけっきょく水を配り、乗せられるだけの人を乗せて町の外へ連れ出し、さらにそのあと、もう一往復して、最初に救出した人々の夫らを救いだし、感動の再会に立ち会ったそうだ。その後、脱出した人たちがそれぞれ親戚の家へ向かうのを見送ってから、帰途についたのだそうです。
学生の一人は憤りと共に語っていました。「バス一台で行ったり来たりするだけでも、一日でどれだけの人が救えるか分からない。なんで、こんなに救助の手が遅いんだ? この国はどうなってしまったんだ?」
これは、アメリカのローカルなニュースサイトで流れている無数のニュースのひとつに過ぎません。完全に真実かどうかも分かりません。でも、テレビでは報道されていないニュースの裏側を垣間見ることができる情報は、これ以外にいくらでも見つかります。とてもここで紹介する気になれないむごたらしい話もたくさん載っていました。英語さえ読めれば、これらの情報は世界中の誰でも読めるものばかりです。
BFCシリーズをやっている時、よく「英語を勉強するべきですか? もしそうなら、なんで勉強するべきなんでしょう?」という質問をもらいました。
これ以上の理由を、ぼくは思いつくことができません。
どうかこの瞬間にも苦しんでいる人たちのところへ、一刻も早く救いの手が届きますように。
どうか、どうか。

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