Archive for 5月 2005


三十代の暴走

5月 29th, 2005 — 9:27pm

今日読んだニュースによると、なんでも二十代、三十代の暴走族というのが増えているらしい。
逮捕者も多数出ているようで、はじめは「ほんとかよ!?」と耳を疑ったのだが、逮捕者の年齢を見ると、けっこう自分の世代の者が混ざっていた。なんでも十代の頃に乗っていた旧型のバイクや車を引っ張り出して、それで走り回っているのだという。そこまで記事を読むと、少し気持ちが分かる気がした。
十代の頃には走り屋さんやら、喧嘩屋さんやら、暴走族やら、いろんな人が周りにいたが(もちろん、それ以外の普通の人もいっぱいいました)、今ではそんな連中もみんな三十代半ばにさしかかりつつある。昔は徹夜しようが、一日中野球をしようが、疲れることなど知らない体だったのに、最近ではグロンサン内服液なしでは朝ご飯も食べられないほどに弱ってきている。「喧嘩上等」だったのが、今では「十時消灯」になり、宴会でひげダンスを踊らせたら社内で一番だったりする。かつては時速200キロで赤信号を無視しても怖くなかったのに、今では息子が原因不明の熱で寝込むと、血便が出る程ほど心配だったりする。
だから、ふとある時、夜中に寝付けずに天井を見ていて気がつくのかもしれない。
もう二度とあんなに気持ちよくバイクで走ることなんてないんだろうな、と。
三十代……本当に微妙なお年頃である。
筋力も衰えて、反射神経も弱って、昔より命を大切に感じている。医者からは酒の量を控えろとも言われている。
でも、やればできないというほどでもない。ちょっとムリをすれば、まだぎりぎり走れるぐらいのところではある。
でも、今から五年後なら、もう分からない。十年後なら、まず確実にムリだ。
もしかしたら、今が最後のチャンスなのかも知れない。
半分の人はそこで横に寝ている妻と子供の顔を見て、「何ばかなこと言ってるんだ、おれは」と思って、それきりそんなことは忘れるのだろう。でも、その時、たまたますごく仕事が行き詰まっていて、人生が息苦しく感じられるもう半分の人たちは、寝床からむくっと起きあがって、インターネットの中古バイク屋で昔乗っていた愛車を検索し始めるのかもしれない。夜中にパソコンに向かって、一人電気の消えた部屋で懐かしいバイクの姿を見ていると、たまらなく寂しくなるのだろうか——鏡を見ると、腹も出ているし、髪の毛も薄くなった。あれだけ好きだったロックのCDも、今ではほとんど聴いていない。
でも、あの頃乗っていたバイクだけは、今も少しも変わっちゃいない。
別に今さら世間に迷惑をかけたくはない。近所の人たちを夜中に起こして回りたいわけじゃない。そこは三十代——人生だってそれなりに生きている。自分ががんばっているように、となりの青山さんも、向かいの秋本さんもみんな朝から晩まで働いているのは知っている。彼らだけじゃない。世の中のほとんどの人がそうだということは身に染みて分かっている。だから十代の頃のように世の人々が憎いわけじゃない。世間に腹が立つわけじゃない。
そうじゃない。
そうじゃないのだ。
たぶん暴走族とかバイクとか、そういうものに限らず、誰しも年をとっていく過程で、「ああ、おれはもう二度とあれをすることはないんだろうな」と気がつく瞬間があるのだと思う。
もう二度と誰かを好きになって、ときめくことがない……。
もう二度と力一杯、人と殴り合いの喧嘩をすることがない……。
もう二度とグラウンドで息が枯れるまでボールを追い回すことがない……。
もう二度とみんなで夜中に土手に集まって、ふざけながら一晩中過ごしたりできない……。
そう強く感じ始めるのが、「三十代半ば」という年齢ではないのだろうか。
「無謀な挑戦」という若者に与えられた特権を手放してしまう前に、もう一度だけあの熱い気持ちを思い出しておきたい。そしたら老人になった時でも、きっと思い出せる。——そう考えてしまう年齢なのだと思う。
得てしてその「最後の挑戦」はとてもコミカルな結末を迎えてしまうことが多いのかもしれないが、それでもきっと挑戦した人たちには何かが残るのだろう。「三十代の暴走族」を奨励する気は毛頭ないが、なんとなくそういうことをやってしまう人たちの気持ちは分かるような気がする。……そして、心の中で拍手を送りたい、という気持ちもある。
きっと彼らは、「若者」という特権が失われる時、ほかの人たちよりもほんの少し素直に、それを手放せるのではないかと思うからだ。
我々の世代の最後の反逆者たちよ。
事故と腰痛にだけは気をつけて、せいいっぱい疾走してくれ。
勇気のない、ぼくの分まで。

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無駄無駄無駄無駄ァァア!

5月 26th, 2005 — 7:35pm

前回の続きです。
掲示板の書き込みを読んで、ぼくの頭の中にある一番無駄な知識って何だろうかといろいろ考えてみたら、以下のようなものが出てきた。
・生まれて初めて憶えた小学校の時の電話番号。
三年持っている携帯の番号はまだ忘れることがあるのに、三十年前に憶えた番号は未だにすぐ出てくる。きっとぼけたりしたら、電話かける時は何でもこの番号にかけてしまうのだろう。
・ 受験の時憶えた、「中国の王朝の盛衰順」をあてはめた替え歌
誰から習ったのかも忘れたが、「いんしゅうとうしゅう、しゅんじゅうせんごく〜、しーんぜんかん、しーんごーかん……」という歌で、確かに受験には役だったのだが、その後何をどうしても脳が忘れてくれない。
・アメリカの教会の日曜学校で憶えたABCを逆に歌う方法
「ZYX、WV、UTSRQP〜」と逆順でリズミカルに歌うのだが、当時はけっこう「クール」だと思って、これみよがしに友達に披露していたような気がする。実際、友達もみんな「すげー」と言ってくれて鼻が高かったのだが、今考えると何が「すげー」のかさっぱり分からない。その後、英語の塾講師の面接を受けた時に「英語が得意だという証拠を見せて下さい」という質問に、この歌を歌ってみせたのだが、なぜか敢えなく落とされた。
・「ハロウィン」という古いホラー映画のほぼ全台詞
当時まだ日本ではほとんどホラーがビデオ発売されていなかった時代に、伝説の映画「ハロウィン」が手に入ったのだが、英語版だった。スタジオのスタッフで、現在消息不明のやまそうという男が大変にこの映画が好きだったため、全文を訳そうと一時停止しては再生、を繰り返して全台詞を書き取ったあと、それをひとつずつ日本語に訳していったので、自然と全部記憶に残ってしまった。たぶん、こんなもの憶えているのは世界でぼく一人だけだと思う。
・初代からスカイライダーまでの全仮面ライダーの外見的特徴、および詳細な変身のポーズ
小学校六年間に写したすべての写真に、なんらかの仮面ライダーの変身ポーズで写っているぼくとしては、これにはこだわりがある。小学校の時には自分で仮面ライダー辞典を編纂して、コピーして、学校でみんなに百円で売って、先生にパンチをくらったことがあるぼくだ。忘らいでか!という感じである。変身もただ適当に手を回すような子供だましのものではない。本物の変身は「腰」が入る。ぐっと腰から体を引き、指先までピンと力を込めて、腹から響く低い声で藤岡弘のようにうなるのである。「へんうぅぅしぃん!」 当時「テレビくん」で藤岡先生の解説を交えて、コマ送りされた変身シーンをボロボロになるまで研究したので間違いはない。藤岡先生が当時「変身は心だ。心でやるんだ」と仰っておられたので、未だに変身ポーズをするときは身が引き締まる思いになる。
以上。今回見つけたのはこのくらいだが、探せばもっともっと出てくるはずである。
たぶん第一志望の高校を落ちたのも、大学を一浪したのも、大学のフランス語がさっぱり覚えられなかったのも、未だに携帯電話の番号が覚えられないのも、これらの無駄な知識がぼくのハードディスクを占領しているからだと思われる。ぜひきれいさっぱり消してしまいたいところなのだが、実はこれらの知識を消すと、一緒に消えるものがあって、それができない。
仮面ライダーのことを忘れてしまうと、最初に子供心に焼き付けられた「正義を愛する心」も一緒に消えてしまいそうなのだ。「ハロウィン」を消してしまうと、みんなからムリだと言われたことでも、いっしょうけんめいやれば、けっこうやり遂げることができる、という教訓を忘れてしまいそうだし、「ZYX」の歌はどうでもいいけれど、それを忘れてしまうと、教会学校でこれを親切に教えてくれたおばあちゃんのことも一緒に忘れてしまうかもしれない。「王朝の歌」も同様に、歌は忘れてもいいけれど、これが頭にあるおかげで、どんなに受験が大変だったかを憶えていられるので、受験生を見ると親切な気持ちになれる。
電話番号?
うーむ。まあ、確かにもう三十年も使っていない番号だし、忘れてもいいと思うのだが、いつかもう一度この番号の加入権を買い戻して使いたいという夢があるので、まだ憶えたままにしている。
それにぼけた時、かける番号がないと困ってしまうと思うのだ。

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君の手であとはどうにかしてくれ

5月 25th, 2005 — 1:45am

歌の歌詞が憶えられない。
昔から歌詞を憶えるのは苦手だったが、その傾向は年々悪化し、最近では一日二十回ぐらい耳にするヒット曲のサビの部分すら思い出せないことがある。悲しいことにメロディーだけは残っているので、散歩をしている時にふいに口ずさみたくなるのだが、口ずさもうにも歌詞が1文字も思い出せないので、口ずさめない。おまけに音痴なので、メロディーだけハミングしていても音程を外し、結果的に周りの人には得体の知れないオリジナル曲を歌っているようにに聞こえてしまうらしい。
周りの人「何、それ、演歌?」
向山「いいや。宇多田ヒカル。」
たとえば少し前にヒットしたポルノグラフィティの「メリッサ」——覚えのある人も多いと思うが、とても頭に残るメロディの曲である。ぼくも数回聞いただけで出だしがすっかり頭にこびりついてしまった。ところがいざ歌おうとすると、出だしの「君の手で〜」というところで止まってしまう。君の手でいったい何をするのか、いくら考えても思い出せないのだ。君の手で何かするのか、何かされるのか、それすらはっきりしない。仕方ないので、ぼくの「メリッサ」の歌い出しの歌詞はいつも「きーみのてっで〜 ふふんふっふんふんふん〜」である。
しかも、メロディーもほかのところは曖昧にしか思い出せないので、けっきょく頭の中で「きーみのてっで〜 ふふんふっふんふんふん〜」が永久にループで繰り返される。こうなると歌と言うよりも、もう、何かの暗黒呪文である。一時期CMの「チョコボールの歌」が寝ても覚めても頭から離れず、明治製菓相手に訴訟でも起こそうかと思ったことがあったが、あれに継ぐこびりつき方だ。あまり腹が立つので適当に歌詞をつけてみたりもした。
(間違えてビデオを返し忘れて)
「君の手で〜 ビデオ借りて〜 返さないと えんーたーい金」
(背中を虫にかまれて)
「君の手で〜 背中かいて〜 ムヒだけじゃ ごまーかーせん」
(麻雀でテンパイしたあと、相手の方を見ていやな笑みで)
「君の手で〜 あまる牌が〜 ぼくの手では あがーりー牌」
ところがこの前カラオケに行って、いやなことを発見した。
最近聞いた歌はちっとも思い出せないのに、二十年以上前に妹が良く聴いていた某バンドの歌は、当時特別好きでもなかったのに、暗唱できるほどよく憶えているのだ。試しに歌ってみたら、最後までほとんど字幕を見ることもなく歌えてしまった。怖々と同バンドのほかの曲もかけてみると、これがことごとく歌えてしまう。——自分の家の電話番号を覚えるのに三年かかるぼくの脳が、なぜ二十年以上前に壁越しにとなりの部屋から流れていた音楽をそこまで憶えているのか、自分でもまったくの謎である。
にも関わらず、記憶の隙間にいつの間にかサブリミナルのようにこびりついていたらしく、まったく憶えた記憶のないものまで、いざイントロが始まると、なんとなく歌えてしまう! 妹がよくぼくの部屋でビデオを見ていたので、もしかしたら踊りもできるのではないかと思って、この前、家に誰もいないことをしっかり確認してやってみたら、ショッキングなことにワンコーラス全部踊れてしまった。
怖い。ただでさえ人間の記憶の容量なんて決まっているというのに、ぼくの頭の何パーセントかはそのバンドが発表したアルバム七枚の歌詞にかなりの部分持っていかれているのだ。しかも、どういうわけかまったく忘れない。小学校の同級生の名前も最近ではだいぶおぼろげになってきたというのに、一度として自分でかけたことのないCDをほぼ完全に憶えているとは……いったい人間の記憶の仕組みというのはどうなっているのやら。
あまり悔しいので、記憶を無駄にしないためにも、最近はカラオケにいくと毎回そのバンドの歌を歌っているので、おそらく周りからは「大ファンだったのだろう」と勘違いされているはずだ。
ちなみに妹が当時聴いていたそのバンドの名前だが、残念ながら、それをはっきりここに書くことはできない。というのも、今や結婚して母親になった妹は、一人前にクラシックやらエンヤやらを聴くようになったので、中学生時代、部屋中がそのバンドのポスターだらけになっていたことを多少恥ずかしく思っているのだ。だから敢えて、ここでは名前は書かずに、そうだな……仮に「レボリューションじゃない方のTM」とでも呼んでおこうか。
もちろんその「レボリューションじゃない方のTM」の中で、誰のファンだったかというのも頑なに隠しているようなので、ここでは「つんくじゃない方の超有名音楽プロデューサー」とだけ言っておくことにしよう。
何しろ、このままだと今から二十年ぐらい経つと、記憶がさらに曖昧になって、ぼくの方がファンだったことになりそうなので、今のうちにここに書いておくことにした。
さあ、Get Wild歌いに行こ。

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携帯電話の意味

5月 23rd, 2005 — 1:33pm

携帯電話について、いろんな意見を掲示板にいただきました。
やはりみんな感じていることなんだなあ、とあらためて思いました。
思うに、昔の固定電話というのはあまり精神的な負担になっていなかったような。
それどころか、「いざとなれば連絡できる」という保険のような存在で、安心感を与えてくれるものだった。外観の丸っこくて全面的にアナログなイメージも手伝ってか、あの機械から威圧感を受けるということはなかったように思う。なんとなく
「忠実な秘書」という印象の機械だった。あの機械が鳴り始めると、「ご主人、会社の人からお電話が。」というような感じで、なんとなく温かささえ感じたが、今の携帯電話のベルはまるで「出ろ出ろ出ろ出ろ出ろ出ろ出ろ出ろ」と鳴っているように思えて、鳴るたびにイライラしてしまう。
きっと携帯電話がこんなに普及したことによって、携帯電話の存在そのものが変わってしまったのだと思う。都市部の大人などに限っていえば、もはや所有率は限りなく100%に近いという異様な状況が成り立っている。そのことによって携帯電話をかける時、「相手が出るかもしれない」という意識から、徐々に「相手は出ないとおかしい」という認識へと移り始めているような気がするのだ。
一日中身につけていて、たとえ音を切っていようとバイブレーターで強制的に着信を知らせ、ボタンひとつ押さなくても勝手にメールを受信したあげく、「着いた着いた」とわざわざ知らせてくれる。そして、一回でもかければ、その「かけた」という事実が着信履歴に残る。最近の携帯なら、開くと「何時何分に誰々から電話があった」と表示されているので、見落とすことは不可能だ。そこには隙も余裕もまったくない。
家の固定電話の時代には「電話に出ない」ということに特別意味はなかった。電話して、誰も出なければ「留守だ」とか「風呂に入ってるのだろう」ぐらいにしか思わない。そこにはかける側にもかけられる側にもストレスがない。何しろかけた側も、かけられた側も、いくらでもとぼけられるし、返事をしなかった電話はなかったものと同じになる。
しかし、携帯電話に「出ない」ということには、別の意味ができてしまった。かけた側は携帯電話がつながらないとすぐに疑心暗鬼になってしまう。「わざと見て見ぬふりをしてるのだろうか」「何かあったんじゃないだろうか」「嫌われたんだろうか」。相手はもしかしたらただ家に携帯電話を忘れただけかもしれないが、それでもいろんなことを考えてしまう。結果、出るまで何度もかけてしまったりする。
一方、受け手側は何度もの着信履歴に気がつくと、「怒ってるのではないか」「何か困ったことが起きたのではないだろうか」「わざと出ないと思われてるだろうか」などという考えが脳裏をかすめ、電話を返すのも気が重くなる。しかし、ここでで電話を返さないと、やはり新たな誤解につながってしまうことも分かっている。
何しろ「気がつかなかった」「電話するチャンスがなかった」「疲れてた」などの言い訳が効かない。携帯電話はいつもそこにあるのだから。あれだけ小さくて軽くなったら、持って行くのが面倒だとか、重たいだとか、そんな言い訳さえも通じなくなる。持っていてあたりまえ。返事して当たり前。そうしなければ、そこには何か「意味」ができてしまう。そして、その意味はたいていあまりいい意味ではない。
これから先、きっと「携帯を持たない」もしくは「好きな時しか出ない」と宣言する人がどんどん増えてくると思う。ぼく自身が数年前からそうしようとずっと迷っていて、今ひとつ踏ん切りがつかずにいるのだが、今年はいよいよそういう可能性を本気で考え始めている。確かに携帯電話は便利だし、楽しい側面もある。でも、その代償として払っているストレスに比べれば、それは本当はたいした価値ではないんじゃないだろうか。
個人的には日本中の人が最近イライラしているのを感じる——もちろん、ぼく自身も含めてだ。
そのイライラが顕著に現れ始めたのは、ちょうど携帯電話が普及し始めた頃からだったと思う。
今やビジネスマンには携帯は「必需品」だと言われている。
でも、果たして本当にそうだろうか?
この世で、本当になければ困るものなど、そんなにたくさんあるのだろうか。
少なくとも、二十年前には今のような携帯電話を持っている人など誰もいなかったが、世の中は普通に動いていた。「ああ、こんな時に携帯電話があれば……」などと思う人なんていなかったと思う。連絡する必要があれば、あたりまえに近くの公衆電話を探しただけだ。そして、探しているうちに冷静になったり、考え直したりもできた。十分、便利だった。
どこかの研究者が携帯電話から出る電磁波が脳に有害だと訴えている。それが本当かどうかは分からないが、別に電磁波を出していなくても、携帯電話は十分脳に有害かも知れない。おそらくもう手遅れだろう。車もテレビも一度手に入れたらなかなか手放せないように、携帯電話もすでに我々を支配している。今、一般の社会人が携帯電話を手放すことは、戦場で自分だけ武器を捨てるのと同じようなものだろうから、誰も捨てることなんてできない。
また携帯電話が鳴っている。出なければいけない。出なければきっと嫌われてしまうから。
出ろ出ろ出ろ出ろ出ろ出ろ出ろ出ろ出ろ出ろ出ろ出ろ出ろ出ろ出ろ出ろ……

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残り2.5Ghzの茫漠とした空間に思う

5月 23rd, 2005 — 2:32am

今年後半から来年にかけて相次いで発売されることになる次世代ゲーム機の映像というのを見た。
確かにすごい。映画と見まがうような画面が普通に動かせている。技術の進歩もここまできてるのか、と感心する一方で、ぼくの心は少しも感動していない。それどころか、奇妙に冷ややかにその美麗な画面を見ている。
いったい、これは誰が求めている技術なのだろうか。
少なくても、ぼくではない、と思う。
最近とみにそう感じることが多い。
パソコンのCPUの思考速度が2Ghzから3Ghzになった。すごいことなのだろう。しかし、その差を体感してる人間がいったい何人いるのだろう。メールを送るにも、インターネットを見るにも、1Ghzの半分のCPUでも十分すぎるほどである。残りの2.5Ghzはいったい誰のためのものなのだろう?
携帯電話もそうだ。ほとんどの携帯電話に今やカメラがついている。ぼくの携帯にも三年前からカメラがついている。しかし、この三年間面白半分に数回写真を撮った以外、これといってその機能を有効に使った記憶がない。それどころか生まれて今日まで振り返ってみても、カメラ付きの携帯電話が致命的に必要だったというシチュエーションがどうしても思いつかない。カメラだけではない。ほかに山ほどついている機能も、アドレスブック以外にほとんど使ったことがない。メールはたまに使うが、それもなくても困らない程度の使い方である。むしろついているから使わないといけないような気がして、使っているという方が正しい気がする。
HDDレコーダの機能も半分以上使っていない。ファックス付きマルチ機能電話はボタンが多すぎて、未だに電話をかける以外のボタンの利用方法がひとつも分からない。留守番電話のメッセージを消去するボタンが発見できなくて、最初の半年間に116件メッセージがたまって、中のメモリがパンクするまでほっておいたこともあった。分からない機能があってサポートダイヤルに電話すると、向こうも全部の機能を把握している人がいないのか、たらい回しにされる。
いったい誰のために、文明は今も進化し続けているのだろう。
ぼくは子供の頃、テレビゲームが大好きだった。
でも、そのテレビゲームというのは昨日見た次世代機の映像とはおよそかけ離れたものである。最初に夢中になったパソコンのゲーム「スタートレック」で、ぼくが操る「母艦」はアルファベットの「E」という文字だった。それで小文字の「o」の星の海をめぐり、敵である他のアルファベットを「撃墜」して遊んだ。いつか、本当に母艦の形をしたゲームを操れれば楽しいだろうな、とは漠然と思っていたが、別に「E」でも十分だった。ぼくにはそれがちゃんと宇宙船エンタープライズ号に見えていたのだから。
しかし今、まるで実写映像の中を疾走するかのような車のレースゲームを見ても、ぼくの心は死んだように動かない。驚きも、感動も、ワクワク感もない。まるでちっともほしくないブランド品のカバンを見せびらかされているような気分だ。ぼくは今のゲーム機でもう十分だ。あと二十年ぐらい、この機械を愛させてほしい。パソコンもソフトウェアもバージョンアップなんてしてほしくない。今持っているこの機械に愛着ができるまで使ってみたい。飽きるまで同じもの、同じ人を愛したい。そのためなら便利さなんていらない。——第一、今の状態で十分便利だ。これ以上どう便利にできるのか、想像ができない。
深夜でもコンビニでお金が卸せ、なんでもカードで買うことができ、電話一本で世界中のものが取り寄せられ、その気になれば一日で国を一周できる——いったいこの現代という世界をまだ不便だと感じている人がいるのだろうか?
今朝、ふと「将来できたらいいな」と思うものが何かあるか、考えてみた。
子供の時にはいっぱいあった。でも、そのほとんどはぼくの想像をはるかに上回る形で、すでに実現されている。
辛うじて思いつくのはいろんな難病の治療薬ぐらいだ。それ以外、「あったらいいな」と思うものは、すでに全部ある。
今、この短い文章を2.7Ghzのパソコンで打っている。
ぼくが二十二年前に買ったワープロでも、たぶん同じように打てたと思う。
いったいこれは誰のための進化なのだろう?
いったい我々はどこへ行きたいのだろう?
次世代ゲーム機が内蔵している超高速の電子頭脳も、その答えだけはどうも教えてくれそうもない。

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資料では決して分からないこと

5月 20th, 2005 — 2:00pm

昨日は久しぶりに原稿をあまり書かず、ここのところたまっていた「調べないといけない事柄」の調査日にあてた。昔なら図書館に通い詰めたり、何軒もの書店を回ったり、苦労して取材の許可をもらったりしなければならないところだが、最近ではほとんどのことがインターネット上で調べられてしまう。なので、結果的に一日中机に向かっているという意味では、普段と変わらない一日になったのだが。
ネット資料探しの欠点としては、サイトによっては情報が不明瞭であったり、まったくのデタラメな情報が混ざっていたりすることで、必要な内容を発見したあとも、その単語で再び再検索をかけ、複数のサイトで同じ説明が繰り返されていることを確認する必要がある。また、それらのサイトがすべてブログや個人サイトであった場合、全部がどこかひとつのサイトの受け売りである可能性が否定できないため、再度書籍や専門家への質問で確認もしなければならない。
もちろんフィクションなので、多少の事実の婉曲が物語上必要と判断すれば行いもするが、とにかく正確にできることは、極力正確にしたいとは思っている。
そんなわけで一日に何百というサイトを見て回る結果になったのだが、問題は調べる中身である。これが業界ものラブロマンスか何かだったら、そう苦痛でもないのだろうが、何しろものが行方不明事件を熱かったサイコサスペンスで、なおかつ若干の超常現象的要素を持つ物語である。当然、調べる内容も「行方不明事件」「猟奇犯罪」「鑑識捜査」「死後硬直」「脳腫瘍」「霊能力」「都市伝説」などの大変ダークなものが中心となる。これらについては国内で手に入るほとんどの関連書籍と、一部外国の本格的な資料も読んでいるが、何度読んでもたまらなく陰鬱な気分にさせられるものばかりだ。
そんな中、とある理由で行方不明になっているキャラクターの「捜索願いのポスター」を物語中に登場させなければならなくなった。そういったポスターにどの程度の情報が載せられるのが普通なのかと思って、実際の例を検索してみたところ、悲しいほどたくさん見つかってしまった。その多くは実際の被害者の家族などが運営しているサイトで、正直、精神的に資料として見ることのできないものが多かった。ポスターだけ客観的に見ようとしても、その周辺に書かれている痛ましい内容に目がいって、気がつくとサイト全部を読まずにはいられなかった。
そして読んでいる内に、とても大切なことに気がついた。
いつの間にか、書いている物語がドラマではなく、ミステリーになってしまっていた。
ミステリーでは、多くの場合、「被害者」は大道具のひとつに過ぎない。「死体」でさえ、名前と年齢のついた「証拠物件」のひとつとして描かれることが多い。被害者の家族が登場するのはアリバイの証言のためや、容疑者のリストを増やすためであって、被害者の人柄や人生を描くためであることは少ない。ミステリーはある意味、「物語がついた大きなパズル」として捉えられる側面もあるので、仕方がないとは思うのだが、個人的にはそういう物語は書きたくなかった。
ただ、謎を組み立て、伏線を成り立たせることに気を奪われすぎて、いつの間にか「被害者」の存在が設定のひとつに過ぎなくなっていた。たとえ物語中では書類上の名前でしかないキャラクターでも、確かになんらかの人生をどこかで生きてきたはずなのである。それが見えない、ただのデータになってしまっては、物語としての意味が大きく薄れてしまう。フィクションであるからこそ、「人」だけはちゃんと描かなければならないはずだ。
今書き終わっている原稿の大半を書き直すことになっても、やはりもう一度その点を見直して、再構成してみようと思う。「生きている実感がない」と感じるような現代だからこそ、人の生き死にを扱う物語はたとえパズルのようなミステリーであっても、死を軽く扱ってはいけないのだと思う。特に若い世代に読んでほしいと思うからこそ、それは尚更重要なことに思える。
「殺人事件」や「行方不明事件」をマスコミや警察の立場と違い、「ある日、日常に起きてしまった悲しい出来事」として紹介している多くのサイトがある。そこには興味本位では決して見ることのできない、悲痛な痛みと苦しみの日々がにじみ出ていて、新聞が片隅にしか扱ってくれない事件も、当事者にとっては人生を埋め尽くす恐ろしい出来事である現実をまざまざと見せつけられる。
テレビや新聞に登場するニュースは、加工された、編集済みの情報に過ぎない。そこには痛みはわずかしかない。
そんな視点で物語は書かれてはいけないと思う。
「行方不明事件」を物語として扱うからには、たとえフィクションであっても、痛みがなければうそになる。
大切な人がいなくなるということは、想像を絶するほど辛いことなのだ——そんな簡単なことを見失っていた自分が本当に情けなかった。
昨日一日で知ったことだが、日本だけでも、たくさんの行方不明の子供たちの親が今も我が子の帰りを待ちわびている。
そのうちの一人でも、二人でも、一刻も早く無事に見つかることをただただ願わずにはいられない。

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ひとことワンパラ003

5月 19th, 2005 — 6:28pm

yahooニュースの見出しに「ブリ、プロポーズの様子を語る」というヘッドラインがあるのを見て、「なんで魚が!?」と思ったのはもしかしてぼくだけだろうか。

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コーヒーと消毒薬の匂い

5月 15th, 2005 — 8:17pm

 今、書いている物語に保健室と、「保健室の先生」が良く出てくるので、いっしょうけんめい学校の保健室について細部まで思い出しているうち、ふと懐かしいことを思い出した。ずっと忘れていたことだった。
 小学校低学年の時にはどちらかというと内向的で、学校のいろんな行事にいちいちびびっていたぼくは、ほかの似たような性質の子供とご多分に漏れず、よく保健室の世話になった。貧血起こしたり、風邪引いたり、転んだりはもちろんなのだが、それ以外にも理由をつけてはよく保健室に避難していた。——それは主に当時の保健室の先生がとても好きだったからだ。
 とにかく優しい女の先生で、ほかの先生なら「何あまえとるんだ」の一言で片づけられてしまいそうなことを、子供の視線までしゃがみ込んで、長い間うんうん聞いてくれる人だった。あの時はすごく大人に見えたが、おそらく今考えてみると、たぶん大学を出てすぐぐらいの年齢だったのではないかと思う。顔はすっかり忘れてしまったが、子供心にも「きれいな人」という印象が残っている。
 辛いことがあると、保健室の片隅でじっと立っていると、「向山くんはどうしたのかなあ」と言って笑顔でやってきてくれる姿が、小学校時代のぼくの「安心」の定義といってもよかった。世界中のどんな悩みでも解決してくれる、魔法のような人だった。プールが怖くて、一回仮病でかくまってもらった憶えもあるし、心細くなって泣いていると、勝手に職員室で温かいお茶を入れて飲ませてくれた憶えもある。
 でも、残念ながら、どんな魔法も永遠には続かない。
 小学校三年生のある日、先生が今月いっぱいで退職することを突然知らされた。その時は良く分からなかったが、たぶん赤ちゃんができて、産休に入ったのではないかと思う。だいぶ「やめないで」と泣いてすがって困らせた覚えがある。最後の日は放課後、外が真っ暗になるまで、ずっと保健室のベッドに座って、ひっくひっくやっていた。なんとなく世界の終わりのような気がしていた。いったいこれから心配なことがあったり、辛いことがあったりしたら、どうすればいいのだろう。どこへ行けばいいのだろう。もう先生に会えなくなるというのは、いったいどういうことなのだろう。さっぱり分からなくて、とにかく感じたことのない絶望的な悲しさにうちひしがれていた。
 帰る時間になっても、先生はなぜか机から動こうとしなかった。ぼくはずっとうつむいていたので、そのことになかなか気がつかなかったが、ふと顔を上げると、先生が泣いていた。ただ、涙ぐんでいるのではなく、ハンカチを目にあててぼろぼろ泣いていた。それまで「男の子がそんなことでどうする」とか、「先生は泣き虫は嫌いだな」と言っていた先生が、急に涙声でぼくに「ごめんね。先生、そばにいられなくてごめんね」と言った。最後の最後までわがままを言い続けて、よほど辛い思いをさせてしまったのだろう。
無敵だと思っていた先生が泣いている姿——それはぼくを泣きやませるに十分なショックだった。たぶん、「強くなる」とはどういうことなのか、ぼくが人生ではじめておぼろげに感じた瞬間だと思う。気がつくと、必死に涙をふいて、「がんばる。一人でもがんばる。先生泣かないで。」と言っていた。考える前に言っていた。自分が弱虫だとずっと確信していたぼくは、自分の口からそういう言葉が出てくること自体が信じられなかった。「向山貴彦」はそういうことが言えない人間だとずっと思っていた。先生はとてもうれしそうにうなずいて、「大丈夫だよ。先生がいなくても、向山くんならちゃんとやっていける。」と言ってくれた。そして、暗くなった正門から何度も何度も振り返りながら、手を振って学校を去っていった。
 不思議なことに、その後、ぼくはあまり保健室に行かない子供になった。
 内向的な無口な子供から、やたら外向的なうるさい子供に急激に変貌していった。要因はいろいろあったと思うのだが、今振り返ってみて、あの時の保健室の先生の一言が大きな理由のひとつだったのは確かだったと思う。まるで「向山くんは」ではなく、「向山くんなら」と言われた瞬間から、ぼくの中に「向山くん」という別のイメージができていったのかも知れない。「ぼく」は弱虫だったが、「向山くん」はがんばる子じゃなきゃいけなかった。あきらめない、前向きな子じゃないといけなかった。あの保健室の先生がそう言ってくれたのだから、負けるわけにはいかなかった。
 たぶん、人生で出会ったいろんな人から少しずつどういうことが「優しさ」で、どういう事が「強さ」なのか、分けてもらってきたような気がする。そのうちのひとつは確かにこの時、その先生からもらった。その先生は、時としてどんな恐ろしい悩みも、ただ優しい笑みと、ちょっとした励ましだけで乗り越えていけることを教えてくれたのだった。
 大人になって、世界中のすべての悩みが保健室では解決できないことを知ったあとも、ぼくは今でも不安になったり、悲しくなったりすると、学校の保健室に行きたくなる。ドアを開けると消毒薬の匂いに混ざってコーヒーの香りが立ちこめていて、部屋の端では先生が机に向かって何か書類を書いている。悲しそうに戸口に立っていれば、白衣のコートを着た優しい先生がいつの間にかそばに来て、「向山くんはどうしたのかなあ」ときっと声をかけてくれる。
 それだけで、もう何も心配することなんてなくなる。
 ぼくが一番「向山くん」でいられる日には、今でも時々、本当にそう信じられることがある。

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レベルアップ式普通自動車免許

5月 13th, 2005 — 2:07am

RPGなどである種の職業や技術を一定期間行っていると、レベルアップして、今までできなかったことができたり、新しい技を憶えたりするというシステムがある。
ふと思ったのだが、こういうシステムが運転免許にも適用できないものだろうか。
個人的にもう免許をとって十五年。生命保険でも最近は十年入っているとボーナスが出るような時代である。運転免許だって、十年記念にぜひ何かボーナスぐらい出てもいいのではないだろうか。
たとえば免許取得後、5年経ったら「信号での見切り発進よし」とか、10年で「クラクションを好きなだけ鳴らしてよし」とか、15年で「一方通行もバックでなら通過してよし」とか。20年も乗っている人には「高速道路での路肩走行よし」ぐらいのことはあってもいいと思うし、30年乗っているような人だったら「信号を自己責任で無視してよし」とか、まだまだいろいろ特典を作る余地があると思う。半世紀も車に乗っていて、尚ちゃんと運転できるような強者のご老体には、もういっそ「全交通規則免除」という007の殺しのライセンスみたいな超法規処置も考慮してもいいのではないだろうか。
考えてもみてほしい。
これがあれば、みんな楽しみで絶対に長生きしたくなるだろうし、健康にも気を使うようになるかもしれない。
定年がぼちぼち見えてきた五十台後半あたりでも、「あと20年がんばれば、高速道路逆送できる」とか、「70になったらすべての曲がり角をドリフトで曲がろう」なんてご機嫌な夢を持つことだって可能だ。年金も満足にもらえるかどうか分からない次世代の老人には、きっとこのくらいの楽しみがあったってバチはあたらないはずだ。
ぼくの場合は70歳で規則解除になるはずなので、70になったら同じ年齢の仲間を集めて暴走族を結成し、「下畏徒暴螺唖頭(ゲートボーラーズ)」を名乗って、老人ホーム中心にクラクションならしまくって集会とかしてみたい。警察だって、うっかり取り締まったら全身剥離骨折とかさせそうだから、さすがに大目に見てくれるだろう。近所の住民だって、迷惑に思うどころか、むしろ微笑ましく見守ってくれるに違いない。(「あらー、おじいちゃんたち元気ねえ。孫の車にハコ乗りしちゃって。」)
どうしても国が動いてくれないようなら、自動車メーカーの方で「五十年免許保持者専用販売車」などを設けてもらって、クラクションの音をちょっと大きめにするとか(「聴力が衰えてるから」とか、言い訳はいくらでも効くはず)、はじめから改造車ギリギリの仕様にして、テールランプに強烈に赤いランプを十個ぐらいつけるとか(「視力の衰えた方でもブレーキのランプが見やすいように」)、マフラーを外すとか(「耳の遠く鳴った方が近づいてくる車が安全な距離から分かるように」)、などのイカした処置を施してもらいたい。
その頃には今以上に電車も飛行機も怖くて乗れなくなっているだろうし、下手したら年金など一年で五百円とかになっているかもしれないのだ。これぐらいはいいのではないだろうか。
どうか哀れな我々次世代の老人に救いの手を。パラリラパラリラパラリラ〜。

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で、春ってけっきょく何月から何月だっけ?

5月 8th, 2005 — 11:13pm

二十代が終わるまでは、正直、季節というものを意識したことはほとんどなかった。
雪が降ってるから冬なのだろう、とか、クーラーをつけたから夏なのだろう、とか、江戸時代の俳人が聞いたら「日本人、地に堕ちるる」などと嘆かれそうな季節感の持ち主だった。というのも、実際、季節がまるで生活に関係なかったからだと思う。
何しろ、ぼくは三十になるまで、夏服と冬服という概念もろくになかった。夏はTシャツ一枚、秋になるとその上にシャツ、寒くなってきたらジャンパー、それでだめならコート。春になって温かくなってきたら、このサイクルを逆にたどっていくだけである。季節に会わせて洋服の出し入れなど考えたこともなかった。——というよりはそんなことをしているのはハリウッドのセレブぐらいだと思っていた。
たとえば好きなアーティストのライブがあって、チケットを買うために、前の晩から徹夜で並ばないといけないというような場合を想定してみよう。
今だとその場所と季節からどんな服装なら寒くないかを考え、さらにはカイロや虫除けなどを用意し、前の日には天気予報をチェックしたりもするだろう。その並ぶ時期が夏ならともかく、冬だったらきっと計画そのものを中止にするだろう。
ところが十代の頃だと、もう頭の中にはチケットのことしかないので、気温が2度ぐらいしかないのに、ふと気がつくとシャツ一枚で会場に立っていたりする。ジャンパーは持ってないのに、ゲームボーイだけは持っていたりするところがお茶目だ。
会場に着いたら雪が降ってて、その時点でやっと今って冬だったよな、冬って寒いんだっけ、みたいなことを考えてみたりするのだが、とりあえずみんなではしゃいでいると、そのまま夜に突入してしまう。凍えるほど寒くなるのだが、「缶コーヒー飲めば温かいよ」とか無茶な理屈でごまかし、「気合いが入っている」ことを友達に示すためだけに、よせばいいのにアイスクリームまで食べたりする。結果、38度の熱を出したりするのだが、ライブが始まると、それでも平気で二時間踊って帰ったりするから、健康法もくそもない。WHOなんてくそくらえの世界だ。
これでは季節などいつでも同じなのだ。
だから、あの頃はニュースで「やっと春ですねー」などとアナウンサーが喜んでいるのを見ても、いったい何がうれしいのかさっぱり分からなかった。十代の男子にとって、春というのは夏に女の子が薄着になる一歩手前の時期だということぐらいにしかとらえられない。試しに手近な十代の男子に「春って何月から何月のこと?」と聞いてみるといい。賭けてもいいが、耳を疑うような答えがいっぱい聞けるはずだ。
季節がからむものといえば、食べ物もそのひとつ。春には春の、秋には秋の味覚がたくさんある。今のぼくはとりあえずこどもの日にちゃんと柏餅を食べるほどに成長したが、十代のぼくにとって、食べ物とは季節で区切るものではなく、マクドナルドが何のセール期間中かで区切るものだった。季節が春だろうと秋だろうと、マクドナルドで今フィレオフィッシュが半額なら、それはフィレオフィッシュの季節なのだ。ポテトのLが一ヶ月間100円セールだった時には、朝から晩までポテトの季節だった。(その結果、次の月が胃潰瘍の季節になったりもした。)
とにかく体が季節によって変わるということなど皆無だった。季節にも時間帯にもなんら左右されず、いつも自分は一定だと思っていた。——しかし、ぼくにとって至極あたりまえだったこの事実は30という年齢と共にもろくも打ち破られた。
季節の変わり目になぜか調子が狂う。冬になると腹をこわす。インフルエンザが始まるとびくびくし、花粉症の季節にはマスクをする。中学生の時に「どっちの方がたくさん花粉を吸えるか」という虫けらでも思いつかないような遊びを考え、咲き誇ったセイタカアワダチソウの中に突っ込んで、大きく十回深呼吸をしてから、誰が一番早くくしゃみができるかを競った思い出が恥ずかしい。罰ゲームとして「インフルエンザの友達とキスする」などという戯けたことを思いつくことそのものが、いかに体が無駄に元気かという証拠だと思う。
今では天気予報が知らせてくれる前に、なんとなく体が季節を教えてくれるようになってしまった。食欲もしっかり季節に合わせて変動するし(昔は主に財布の中身で変動していた)、気分も天気によって大きく左右される(昔は雨が降ると、「死闘」とかと称して、わざと外で野球をしたりしていた)。若さが少しずつ失われていくのは悲しくもあるが、その分、もっと細かい生活の変化は楽しめるようなった。さすがに八月にまだ炬燵が居間にあったり、冬場に暖房器具を買い忘れて、台所でジャンプを燃やして暖を取ろうとしたりもしなくなった。
何よりも冬の寒さが過ぎて、春の最初の温風が南からやってくるのを、うれしく感じるようになった。
また、9月頃、静かに夏の暑さが遠ざかっていくのを感じると、漠然と寂しい気持ちを感じるようにもなった。
春夏秋冬——地球の環境が壊れつつあり、四季もずいぶん崩れてきてはいるが、それでもぼくらは季節と共に暮らすしかない。痩せても枯れても、まだ、ぼくらは日本人なのだから。

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