Archive for 8月 2000


私的アクション映画ランキング

8月 29th, 2000 — 2:35am

新しい作品がアクションもの(と、いうと少し語弊があるが)なので、最近片っ端から有名なアクション映画を見ている。
「ダイハード」のシリーズはもちろん、「ファイナルカット」とか、「サイコテロリスト」 まで、ほとんど誰も知らないような映画も網羅してしまった。その結果、分かったこと:書きたいものはけっこう渋いものが書きたいのに、やっぱり好きなものはメジャーなものだな、と。
バカにされても、どうしても「ダイハード」が 好きなぼくは、所詮は元アメリカ人なのかもしれない。
アクション映画はワーストはあげればきりがないので(と、いうかベストを100まであげれば残りは全部ワーストという気も)今回はベスト10だけあげることにしよう。

ベスト10【保留】なんかひとつぐらい忘れてそうなのでこの枠保留。

ベスト9【必殺3! 裏か表か】唯一すごいと思った日本映画。ぼくが必殺シリーズのファンだからということもあるだろうが、 中村主水が髪を振り乱して自らの命を守るためだけに鬼神のように人を斬るラスト二十分は圧巻!必殺、こうあるべし。

ベスト8【エアフォースワン】何気なく借りたらとてもおもしろかった。 一見柔らかめなサスペンスと見せかけて、実はヘルきつい映画。目を覆うようなシーンもあるので気の弱い人にはおすすめできない。

ベスト7【ジャガーノート】ぼくの知る限り、唯一本当によくできた爆弾処理もの。 古いだけに壮絶に地味でテレビ映画を思わせるが、解体シーンの異様な緊張感は他に類を見ない。

ベスト6【ダイハード】アクション映画に「知性」を初めて持ち込んだ作品。 はげかけたオヤジをヒーローにした勇気がすべてを変えた。

ベスト5【マトリックス】前評判がでかすぎるので100%こけるつもりで見た作品。これがけっこうおもしろかった。非常に斬新なアクション映画。 今後増えそう。

ベスト4【レオン】ベッソンの映画、実は余り好きではないのだが、この映画はしびれた。なんといっても「職業は?」と聞かれて「殺し屋」と答えたレオンに女の子が たった一言「cool」とつぶやく場面がいかしすぎてます。

ベスト3【リーサルウェポン】笑いとアクションがこれほどバランスよく入っている作品をほかに知らない。 リチャードドナーの本領発揮!といったところ。このシリーズはしかし、このあと作品を追うごとに笑いに偏っていき、4に至ってはもう完全にホームコメディー。

ベスト2 【ダイハード2】おそらく圧倒的に2よりも1の方が支持が高いと思うが、敢えて2を押す。だって、レニーだし。この人の映画こそ娯楽。テーマがない?知性がない? いいんです、この人だけは。爆発とスローがあれば。

ベスト1【交渉人】シナリオが抜群の出来で、演技、演出共に見事。映画史上最強の知能戦と思える駆け引きが出色の完成度。 混乱の中、主人公の脳天にレーザー照準の光が当たる下りは心底息を呑んだ。

特別賞【トイストーリー2】アクション映画に入れていいかどうか分からないけど、 全ジャンル総合でも一位。

我ながら低俗なベスト10になったことを誇りに思います。ほかにいいのあったら教えてください!

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珍しい景色

8月 22nd, 2000 — 2:34am

長らくコンビニのなかった我が最寄り駅にもついにコンビニが登場。
けっこう大きなターミナル駅だけにないことの方が不思議だった。新しくできたファミリーマートはバス通りにあるので、工事をしている 間、何度も車で前を通ったのだが、そのたび、思うことがあった。
このファミリーマートもほかのコンビニの例に違わず、年中無休の24時間営業である。今は消えている電気も一旦開店すれば、つぶれるか世界が終わるかでもしない限り、二度と消えることはない。今はからっぽの戸棚は開店すればびっしりと商品が詰め込まれて、なくなればまたすぐに補給され、それが飽くことなく繰り返されていく。一旦走り出せば、もうコンビニは最後が来るまで休むことはできない。
そう思ってみていると、なんとなく今はそれを知らずにゆっくりと開店を待つコンビニが切なく思えた。少しぼくらの人生と似ているからかもしれない。人の行き交う駅の前の通りで、ぽつんと灯のともるのを待つお店。
今はゆっくり休むんだぞ。今はゆっくりな。

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不幸の土産

8月 16th, 2000 — 2:33am

故郷が下関で一番困るのはおみやげである。何しろ下関といえばあまりにも有名なのが「ふぐ」。もし下関みやげに「ふぐ」という名前がつかないものを買ってくるとあからさまに疑問に満ちた顔をされてしまう。
絶対に誰も知らないと思うが、実は山口でも名産品に「外郎」を作っている。でも、そんなものをもしおみやげに持って帰ったら当然こういう展開になる:

ぼく「はい、おみやげ。」
友人「えっ?実家に帰ったんだよね。」
ぼく「うん。」
友人「実家、下関だよね?」
ぼく「そうだよ。」
友人「そうだよね。」
ぼく「どうかしたの?」
友人「本当に下関だよね?」
ぼく「うん。」
友人「そう……あっ、おみやげありがとう。」

できれば「ふぐ」を買いたいのは山々なのだが、とにかく下関では「ふぐ」とつくだけで値段が高くなってしまう。それが例えふぐ饅頭でもである。しかも、さすがに「ふぐ」でも、「ふぐ饅頭」で満足する人は少ない。そんな時に救いとなるのが「ふぐ茶漬け」である。これなら虫眼鏡のひとつもあれば実際に肉眼でふぐの身が確認できる。 運が良ければまれに「ふぐ」の味がすることさえある。まあ、もちろんほとんどふぐなんて食べたことはないのでそれが別の魚であっても分からないとは思うのだが。

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敢えて何も言わない

8月 15th, 2000 — 2:33am

とある高速バスの停留所。夏。炎天下。
典型的な現代の女子高生がなにやらバスの運転手ともめている。どうやらペットの犬を車内に持ち込もうとして断られたらしい。
しばらく食い下がっていたが、やっとバスから降りた女子高生。あきらめたのかと思うと、ペットを自分のボストンバッグの中に押し込め始める。犬はいやがって逃げようとするが、頭を押さえ込んで必死にジッパーを閉じる女子高生。やめろと注意する父親の言葉には耳も貸さない。父親もそんなことに慣れているのか、すぐに引き下がる。女子高生は犬の入ったボストンバッグを抱えて別のバスに向かう。
おそらく犬の存在に気づかれなかったのか、無事にバスに乗車。バスはゆっくりと出発する。あとに残された父親は何事もなかったような表情で車へと戻っていった。
夏、炎天下での出来事。

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比較都市論

8月 11th, 2000 — 2:32am

実家に帰ってきて丸一週間が経過した。明日にはここを旅立つことになる。
東京に長い間住んでいると現代人はみんないつもいらいらして、何かに怒っていて、半分ぐらいの人が 投獄されるべきだと考えがちだが、こっちに帰ってきて町を歩いているとまだまだ世の中捨てたものじゃないなと思えてくる。分かりやすくするために以下に違いを述べてみよう。

【人に道を聞くと】
下関:教えてくれるだけでなく、途中まで案内してもらえる
東京:金品を差し出されて、全速力で反対方向に逃げられる

【食堂に入ると】
下関:威勢のいい「いらっしゃいませ」が聞こえてくる
東京:ぴあが取材に来ているので料理などしている暇はない

【渋滞に割り込む】
下関:互いに手を挙げて礼を交わす
東京:殺し合い

【道で肩がぶつかる】
下関:自然と謝る
東京:殺し合い

【週末の予定】
下関:のんびり買い物
東京:殺し合い

このようにずいぶんと同じ日本国内でも差がある。長い間東京に住んでいて、自分がいかに合理主義で 張りつめた人間になっているのかに気付き、こちらでけっこう反省した。下関支部長大ちゃん以下、「下関からから軍団」(笑)のみなさんと数日を共にして、ゆっくりとマイペースで生きる彼らの 生活に大切なものを思い出させられた下関の一週間だった。

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現代日本語講座

8月 10th, 2000 — 2:30am

ポンポロポンパンポンポン。こんばんわ。おなじみ『現代日本語講座』の時間がやってまいりました。今日も講師は私、「死語二十」がお送りいたします。
さて、日本語も文語やら口語やらに分かれて(例:文語「極めて秀逸」 口語「超すごーい」)いろいろとややこしかった時代に比べるとずいぶん便利になりました。最近では特定の地方においては敬語すらも廃止しようという運動が起きています(例:ラフォーレ原宿)。
こうして日本語も便利に進化していく昨今、日本語という言語体系そのものの変革が求められてきています。より自由度の高い活用が加わり、文章構造の根本が覆されてきています。例えば疑問系というのはかつては 何かを聞く時にしか用いることのできなかった構文でしたが、現在ではどのような形でも用いてもいいわけー?
そして、このような新しい言語文化には新しい単語が必要になっています。 ひとつの単語でより多くの意味を持ち、汎用性の高い言葉の使い回し。現代ではすでにこのような単語がいくつか登場しています。例えば、以下の典型的な若者の会話をみてみましょう;


何かの爆発に巻き込まれたような髪の毛と、アスファルトで顔を洗ったような化粧をしている著しく人類からかけ離れた女子高生1(以下若者1):「っていうか、マジかわいくないこれ?」
何かの爆発に巻き込まれたような髪の毛と、アスファルトで顔を洗ったような化粧をしている著しく人類からかけ離れた女子高生2(以下若者2):「マジかわいい」

ここでこの二人は何を見てこれを言っているのでしょう。
はい、そこの四十代の男性の方。えっ?人形?ぶーっ。残念でした。
それは七歳までの話です。
はい、次の方。絵本?
それはあなたの淡い希望ですか?そんなはずはありません。
ほかにありませんか? ピカチュウのグッズ?おしい!
答えは「友達がガンジス川に旅行に行った際に買ってきた邪神アウスウヌスが魚の頭を食いちぎっている木彫りの像」です。
このように現代では「かわいい」という単語は従来の意味以外にも 「しぶい」「かっこいい」「いかしてる」「運がいい」「山田花子が好き」など実に様々な意味を含む言葉となっています。大変便利な言葉なのでさっそく今日から活用するようにしましょう。
今ひとつどう使っていいか分からないという方に、サラリーマンでの活用例を下に載せておきました。

頭の固いあなたの上司(団塊の世代):「この一万人の社員の人生をかけた経営の再編計画について何か具体的な意見を聞かせてもらえるかな?」
あなた:「超かわいい」
上司:「誰か、救急車。」

それではまた来週!!ポンポロポンパンポンポン。
「現代日本語講座」でした!

若者1:「っていうか、一回しか出てこないし。」
若者2:「もー、超うざい。」

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ピカチュウvs核爆弾

8月 9th, 2000 — 2:29am

ロシアにマクドナルドができたというニュースが流れて久しい。
巨大な敷地面積に一万円のビッグマックで話題をさらったが、あの共産圏初のマックは今はどうなっているのだろう? 少しは安くなったのだろうか?子供たちが気軽に食べられるとまではいかなくても、祝日に家族で出かけられる程度には安くなっていればいいな、と思う。繁盛していればいいなと思う。
かつて冷たい戦争を繰り広げ、お互いを絶滅させる武器を喉元に突きつけ合っていたロシアとアメリカが同じチーズバーガーを食べていると思うと、ぼくはうれしい。同様にアメリカの子供たち が日本の子供と同じようにピカチュウの鳴き声をまねしているのを聞くと安心する。フランスの子供が悟空のまねをして、日本の子供がブルースウィルスに憧れる。国際的な時代になって、国家は武器を交換するのではなく、娯楽文化を交換するようになった。学者や政治家やその他の「えらい人」に言わせるとピカチュウなんてどうだっていいかもしれない。それよりも科学技術や学術論争の方が 大事だというかもしれない。
でも、ぼくは決してそうは思わない。もしまた日本がどこかと戦争を始め、戦場で会った敵兵が自分と同じように子供の時にチーズバーガーを食べ、ピカチュウを愛していると知って、平気で彼を撃ち殺せるだろうか。
かつて日本がアメリカと戦争を行ったとき、戦場に行った若者たちは互いの国の文化のことなど何も知らなかった。共通して知っているマンガのキャラクターなどいなかった。
でも、もし今、戦場にあなたが立って、敵兵に銃を向けて引き金を引こうとした時、そのヘルメットに自分と同じマンガのバッジがついていたら?同じ物語で涙して、同じファーストフードを同じように少ないおこずかいで買った人間はもう見知らぬ異国の気味の悪い敵兵ではない。同じ時代の同じ人間なのだ。
ピカチュウやミッキーマウスが世界中を埋め尽くし、あらゆる国の子供たちがビッグマックを安心して食べられるようになった時、国境などきっとなくなる日が来る。インターネットで遠い国の友達とゲームボーイの話をして育つ子供たちに国境などなんの意味があるだろう。
人間の知恵が生み出したもっとも高度な文化であるはずの宗教や学問が生み出したこの戦争と暴力の世界を、ピカチュウやスーパーマリオ、ビッグマックやミッキーマウスというヒーローたちが救う日がきっとくる。

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空気の缶詰

8月 5th, 2000 — 2:28am

数年前に下関支部長のたこすけに山の田中学校の同級生ばっかりが集まっているお店があるという情報を聞いて出かけていったのが「からから亭」だった。驚いたことにそこには本当に中学校時代の知り合いが次から次へとやってくる。
どの顔も十五年以上前によく見ていた顔を、十五年ばかりふけさせた顔である。よく同級生に久しぶりに再会するとがっかりすると聞くが、ぜんぜんそんなことはなかった。
実に不思議なことにからから亭のその空間には今でもあの頃の山の田中学校の教室が確かに残っていた。大人になって、いろいろなことがあって、最近ではあの雰囲気はぼくが作り上げた幻想だったんじゃないかと思ってしまうことがあった。
そんな時にからから亭に行くと、そこにだけは今となっては大変な貴重品であるあの頃の空気がそのままの形で真空保存されていた。その空気の残量が残り少ないことはみんなが分かっているようで、どこかそれを大切に扱っているのが分かる。昔、空気の缶詰という商品が流行ったことがあったが、からから亭は正にあの頃の空気の缶詰である。ラベルにはきっと「山の田中学校1983年の空気」と書かれているはずだ。
雑巾のにおいなんかが混ざっていてあまりいい匂いじゃないかも知れない。でも、確かにあの頃の空気だ。
さっき、そのからから亭から帰ってきたところなのだが、今日はそこで小学校時代(しかも一年生)に仲のよかった二人を見つけて自分でも忘れていると思っていた話をしてきた。その間中、ずっとそんな空気の缶詰のことを考えていた。もし写真のようにその時その時の空気がとっておけたらどんなにおもしろいだろう。
缶詰のようなものがあって、それで空気を採集してとっておく。そして、何十年も経って、その日のことを忘れそうになった頃、ふとその缶詰を開けると、一瞬だけ――本当に一瞬だけそこにいるような 気分が味わえる。音、匂い、感触、その日感じていたものがすべてその日のままの形で缶詰に空気として残っている。
例えばおばあちゃんになって、もう人生にとても疲れた頃、 押入の奥からそっと、少しさび付いた缶詰を取り出してくる。そこには「はじめてのデート」と書かれていて、半世紀前の日付が記されている。誰もいない静かな部屋でそっと缶詰を開けると、とっくに忘れていたと思っていたあの日のときめきが、すべてが輝いて見えた若さが、瞬間戻ってくる。その空気の中にはもう二十年以上前に死んだ人の優しい匂いが今もかすかに残っている。
からから亭という空気の缶詰の中でそんなことを考えていた。

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長い休日

8月 3rd, 2000 — 2:25am

実家に到着!……したのはいいが、現在、母はアメリカにお仕事で出張中。家には「大学教授の散歩道」でおなじみの父が一人だけ。
うちの母はぼくと違って、実に几帳面で細かい心遣いに長けている。 例年なら実家に帰ってくると部屋は掃除されていて、ご飯ができていて、ぼくの服まで用意されている。普段、独身だとすべて自分でやらないといけない分、そんな母の心遣いが胸に染みてありがたい。
しかし、今回はそうもいかない。当然、ご飯など影も形もない。今日、帰ってきて最初に発見したのは家中のクーラーが壊れていることである。だから、今、これを書いている間も暑さで気が遠くなっている。
車は壊れて修理に出されていて、冷蔵庫は見事に空っぽだった。食卓の上にはかつて見たこともないほどの数の缶詰が積み上げられていたので、飼っているねこの餌かなあ、と思っていたら、どうもぼくの餌らしい。
父親は得意げに缶詰の種類が四種類もあることを自慢していた。今回の帰省は長い一週間になりそうだ。

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