Category: エッセイ


サンタのいる世界

1月 2nd, 2010 — 10:24am

「サンタはいるのか?」
そんな一見ばかばかしい質問だけど、ぼくはいると思っている。

海外には「サンタクロース」という団体がいくつも存在するという。ボランティアの団体で、毎年南極宛に送られる何万というサンタ宛の手紙を郵便局から引き取って、それをひとつひとつ読んでいくシニア市民の集まりだ。彼らの予算は「恵まれない人たちのためのサンタ募金」で切り盛りされている。
サンタへ手紙を書くのは何も家庭に恵まれた子供だけではない。今日のご飯に困っている子供たちも、切手のない手紙でサンタに助けを求める。アメリカの郵便局で、切手が貼ってなくても唯一届く手紙がサンタ宛のものだ。

「サンタクロース」はそのたくさんの手紙の中から、クリスマスに本当に奇跡を必要としている人たちを選び出し、彼らが一番必要としているものを24日の夜、サンタの格好で届けに行く。中にはクリスマスの夜に一家心中をしようとしていた正にその瞬間、サンタが玄関に現れた家族もあったそうだ。
サンタクロースがいないだなんて、彼らは絶対に言わないだろう。何しろ、彼らのところには本当に奇跡がやってきたのだ。

残念ながら個人情報保護がうるさい現代では、手紙の引き取りが不可能になり、「サンタ」の存在は危機に瀕している。人の善意が消えると、サンタも一緒に消えてしまうのかもしれない。――そう思うと、悲しくなる。

子供の頃、うちに毎年来ていたサンタは今、どこの家を回っているのだろうか。
願わくば、多くの幸せを今も運んでくれていますように。

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550トンの衝撃

1月 2nd, 2010 — 10:23am

 ぼくは胸がドキドキしていた。
 もう明日の朝には何もかも終わっているのだ。決して来ることがないと思っていた未来が、すぐ目の前までやってきていた。為す術もなく近付いてくるその最後の瞬間に向けて、ただただ無力に待ち続けるしかない。その時のぼくは他のことが何も手につかなかった。
 今日はコンバトラーVが最終回なのだ。
 最初に知った時は衝撃的だった。たしかに数回前の放送から少しおかしな感じは受けていた。普段は絶対起きてはいけないことが次々に番組の中で起こっていく。前回ではついにコンバトラーVの基地である南原コネクションが爆発。ぼくはテレビの前で口を開けっぱなしにして、その様子をただ茫然と眺めた。そんなはずはない。南原コネクションがなくなるなんてあり得ない。今まで何度もピンチにあったけど、そのたびに切り抜けてきたじゃないか。ただ、そう心の中で繰り返していた。
 たたみかけるように、放送の最後に告げられた衝撃の言葉:「次回、感動の最終回!」
 ぼくはテレビの前で放心状態になった。
 しばらくして、台所で夕ご飯の後片付けをしている母親のところに行って、壁に力なくもたれかけた。母親はまさか息子が人生最大の絶望を抱えて後ろにいるとは夢にも思わず、家事をしていた。
 コンバトラーVは終わらないものだと思っていた。
 ぼくが大人になるまで当然ずっと続くものだと思っていた。これからも毎週毎週コンバトラーVを見ながら、ぼくは大人になっていく。そう信じていたのだ。
「ママ。コンバトラー終わるって」
 ぼくは皿を洗っている母親に言った。言葉に出すと、堪えていた涙が少しこぼれた。
 でも、母親はそれに気がつかなかったようで「あ、そうなの。残念ね」とだけ、なんでもないことのように返事をした。大人にとってはコンバトラーVが終わるなんてなんでもないことなんだ。それが分かって余計にショックだった。
 人生で最初に憶えた歌はコンバトラーVの主題歌だった。音楽の素養がない家に育ったもので、小学校一年に上がるまでレコードの存在すら知らなかった。だから親友のタケラに小学校の登校路で一小節ずつ教えてもらった「コンバトラーVのテーマ」が初めて「歌」という存在に触れた瞬間だった。学校で辛いことがあっても、友達とケンカをしても、コンバトラーVがあれば平気だった。
 あと一週間後。一週間後が来たら、ぼくはもう二度とコンバトラーが動くところを見られなくなる。それは日に日に実感を増して襲ってきて、どうにかできないものかと人生で初めて本気で悩んだ。そして、考えた末、ぼくには何一つそのことを止める方法がないことを思い知らされて、やはり人生で初めての無力感に苛まれた。
 結局唯一思いついたのが、父親のスピーチ録音用のテープレコーダーを貸してもらって、それでコンバトラーVの最終回を録音することだった。それまで何かをまじめに練習などしたことのないぼくだったが、その一週間は何度もテープレコーダーの録音に失敗しないように、必死に特訓した。テープの録音ボタンを押してから何秒後に実際に録音が始まるか、感覚で分かるまで何度も練習をした。でも、練習をすればするほど、コンバトラーVが本当に終わるのだということをただただ、余計に思い知らされるだけだった。
 最終回当日は学校でもコンバトラーのことばかり考えていた。筆箱にコンバトラーVのイラストが描いてあったので、ずっとそれを眺めていた。本当に――本当に今夜、コンバトラーVが終わるのだろうか。そんなとんでもないことが起きるのに、なんで世界は少しも変わりなく動いているのだろう。あたりまえに授業をする先生たちも、すでに次の番組を楽しみにしている同級生たちも、みんな信じられなかった。彼らは分かっているのだろうか。コンバトラーVは今日でもう見られなくなるのだ! それがどんなに恐ろしいことか、なぜ誰にも分からないのだろう。
 夕飯を適当にすませ、コンバトラーVが始まる一時間前にはもうテレビの前に座っていた。いつもなら六時台はあまり好きなものをやっていなかったので、テレビをつけっぱなしで寝転んで漫画を読んだりしていたが、今日はずっとテレビの前に座っていた。なぜか自然と正座をしていた。
 いよいよ直前の番組が終わって、提供のテロップが流れ、CMが始まった。あと二分。あと二分後にぼくの最後のコンバトラーが始まる。泣きそうになったけど、そんな余裕はなかった。一秒でも見逃すまいと、ぼくはテレビに至近距離まで近付いて、テープレコーダーのスイッチを入れた。もしかしたら涙を死にものぐるいで我慢したのも、その時が初めてだったかもしれない。
 コンバトラーVが終わるぐらいだから、もしかしたら、すべてのことはいつか終わるのかもしれない。
 ふと、番組が始まる刹那、そんなことが頭をかすめた。今まで考えたこともなかったけれど、もしかしたらぼくが永遠に続くと思っているこの「小学生」という時間もいつか終わりが来るのかも知れない。とても信じられないけど、近所をよく歩いているあの黒い制服姿のお兄さん、お姉さんたちと同じ服を着て、歩く日が来るのかもしれない。女子に興味を持ったり、泳げるようになったり、父親よりも背が高くなったりする日が来るのかも知れない。それはあまりにも途方もない考えで、想像すら難しかったけど、半年前にコンバトラーVが最終回を迎えることだって、やはりぼくには想像できなかったはずだ。
 CMが終わった。
 おもむろにオープニングの「V、V、V、ビクトリー」が流れ始めたので、ぼくはすべての思考を振り払って、テレビに集中した。今はいい。今は先に広がる未来も、これから先のこともどうでもいい。今はコンバトラーVの最後を目に焼き付けておくのだ。——もしかしたら、いつかこんなこともみんな笑い話になるのかもしれない。でも、今はとても信じられない。胸が締め付けられる。ほおがひきつる。コンバトラーVが終わってしまう。
 ぼくの大好きなコンバトラーVが終わってしまうのだ。

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遺伝子レベルの誤解

12月 19th, 2009 — 2:00pm

 この季節になると、毎年必ず女性のみなさんに提案したくなることがある。もしあなたが三十代以上の男性で、特に既婚者なら、きっと今、同じことを思っているはずだ。
 クリスマスはいい。もちろん日本人の若者の多くがイエスキリストをパンクロックのバンドだと思っていることを差し引いたとしても、クリスマスはいい。楽しいし、お祭り気分になるし、一年のしめくくりが始まった感を与えてくれる。きれいなイルミネーションを無料で見られるのも悪いことじゃない。
 問題はあの「プレゼント」という悪しき習慣だ。あれがどうにも我々男性には解せない。
 女性に「何が欲しい」と聞くと、「なんでもいいよ」「何もいらないよ」と必ず答えるのに、それを真に受けて自分が心からいいプレゼントだと思っている「電動ドリル&ドライバー92点セット」を贈ったら激怒されるのだから意味がわからない。「なんでもいいよ」と言ったではないか! ましてや「何もいらない」を真に受けて、クリスマス当日に一日中プロ野球の中継をビール片手に見ていたら、それが元で離婚になったりするから実に不可解だ。
 男性というのは誓って言えるが、遺伝子レベルに「プレゼント」「誕生日」「おしゃれ」「インテリア」「掃除」というのがどれも存在しない生き物である。男性が生まれつき持っている遺伝子レベルの知識は「ゲーム」「酒」「好きなプロ野球チーム」と「何も着ていない女性への興味」だけである。

 十数年ぶりに再会した男性同士の会話を聞いたことがありますか? 女性同士がもし十数年ぶりに再会したなら、それはもうさぞかし感動的な一瞬になることでしょう。「元気だった−!?」「変わらないわねー!」熱い抱擁の後、きっと今のお互いの家族構成や、子供の写真などを交換して、若かりし日の思い出話などに花を咲かせるはず。しかし、典型的な男性が十数年ぶりに再会した場合の会話はこんな感じである。

A「よう」
B「よう」
A「ところで、FFの新しいの買った?」
B「ああ。おれまだPS3買ってないんだよ」
A「おれもなんだよ」

 AとBは大学時代に一緒に二年間大学に通い、お互いの家に毎週のように泊まっていた仲で、互いの結婚相手とも面識があり、年賀状では子供の写真も交換している。しかし、彼らが最初に会った時にする会話——それは所詮ゲームの最新作の話で、しかもここでは割愛しているが、このあと二時間、この話が続く。これが男性という生き物の本質なのだ。

 女性のみなさんには冷静に考えてみて欲しい。本当にこんな生き物に「繊細で愛情に満ちあふれた、感動的で、それでいて適切な値段のクリスマスプレゼント」など買ってもらうことを期待するべきだろうか。男性が「繊細なもの」といって思い浮かべるのは、流体軸受けの2.5インチハードディスクである。「感動的なもの」と言われて思い浮かぶのはワールドシリーズのバックネット裏のチケットだ。「愛情に満ちあふれたもの」なんて注文をしたら、それはもう、犬に「もっと金目のものをくわえてこい」と命令するようなものである。

 こんな生き物に指輪とか、ドレスとか、そういう複雑なものを期待するのはいい加減やめようではないか。どうせ指輪はドクロが彫られたものを贈られるのが落ちだし、ドレスは紫のシルクにラメの入った七色の星が全身にちりばめれたものになるに決まっている。しょうがないのだ。我々男性はすべての美意識を仮面ライダーとロボットアニメから学んでいるのだから、指輪でも財布でも、押すと飛び出す仕掛けがいくつついているかでしか、価値が計れない。典型的な男性が着けている腕時計を思い出して欲しい。そう。あのごてごてといろんなスイッチがついた自爆テロの時限装置みたいなあれだ。信じられないかもしれないが、あれは男性は好んで買っているのだ。なぜなら、あれは外観が:

1、車の計器類に似ている
2、使う必要のない装置が20種類以上ついている
3、名前がロボットの必殺技に似ている
4、なんとなくどこかを押すと変身できそうな気がする

 仮にその腕時計に時間を表示する機能がなかったとしても、おそらく大半の男性は気にも留めない。それよりも0.00001秒まで正確に測れるストップウォッチが着いている方が大事なのだ。もちろん0.00001秒を測る必要があるのなんて、分子レベルの核融合実験中の科学者ぐらいしかいないだろう。でも、関係ない。大事なのは「おれのストップウォッチはあいつのストップウォッチより性能が3桁多い」ことなのだ。

 だから、もしあなたの愛する男性がクリスマスにパソコンのRAMを二枚買ってきて、「これでメモリがMAXになるよ」などと言ったとしても、その離婚届にハンコを押すのをちょっと待ってあげてほしい。きっと彼なりに考えた末の事なのだ。もちろん考えていたのは通勤電車で最新のRPGのレベル上げをやりながら、iPodで「サイボーグ009」のオープニングを無限ループで聞いている間かもしれない。でも、それが彼の「思案」の限界なのだ。そんな生き物とあなたは生涯連れ添うことを約束してしまったのだから、ここはもう素直にあきらめてほしいと思う。
 ただ、どうしても納得がいかなかったら、まあ、その時は昨年もらった電動ドリルが初めて役に立つかも知れない。

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秋に思う

11月 29th, 2009 — 1:09am

「花見? 花見って、何が楽しいの?」
小学校の時、家の上の高台で花見をしようと提案してくれた母親に対して、ぼくが言った言葉だ。ひどい言い方だけど、まあ、小学生の男子が「花見」に持っている意見の大多数はカバーしていると思う。

そう。あの頃は桜を見て何が楽しいのか、まったく分からなかった。「だいたい桜って花じゃないじゃん。木じゃん」みたいなことを言っていた、実にいやな小学生だったと思う。おまけに時代は昭和。花見のお弁当と言えば、いなり寿司とか、かんぴょう巻がメインで、運が悪ければ卵焼きさえ入っていない始末。焼酎だけあれば満足のおじさんたちはともかく、唐揚げひとつ、ウィンナー一本も入っていない弁当だけで、何時間も桜の木の下にいるなんて修業か!——というのがぼくの当時の素直な心境だった。それでも大人たちは何かにつけて、花を見に行こうと高台の公園にぼくら子供を連れて行った。チューリップかられんげまで、なんでも見に行く。やっと夏が終わって、たいていの花が枯れて安心していると、今度は紅葉を見に行こうと言い出す。「あれこそ花でもなんでもないだろ。枯れ木じゃん」というぼくの意見はいつも軽くスルーされた。

それからの人生でも、何度か花見には行った。いずれも自分から喜んで出かけたわけではなかったが、平成に入ると花見の弁当もずいぶんよくなったし、東京に出てきてからは花見の名所に行けば、屋台や催し物もやっていたので、そこそこ楽しめるようにはなった。それでも、見ているのはいつも下の弁当の方で、上の桜には目もくれず帰ることも多かった。その頃のぼくの解釈は:「みんなきっと桜なんかどうでもいいんだな。集まるための言い訳なんだ」というものだった。

たぶん桜を初めてちゃんと見たのは二十代の後半になってからだったと思う。
花見の途中にふとレジャーシートの上に寝転がってみた。すると、わずか2メートルほど上空が桜の花びらでいっぱいになった。さらさらと揺れる淡いピンク色の花びらの向こうに、高く広がった青空がどこまでも続いていて、じっと見ていると吸い込まれそうだった。そよ風が吹く度、桜の花びらが頭上を舞い散って、ヒラヒラと地面へと落ちていく。こんなささやかな風でさえ、散るほど儚い花びらだった。

そうか。この桜は今しか咲いてないんだな、とふと思った。
来週ここに来て寝転がったら、もう桜はないんだなと思うと、なぜか急にその光景がとても愛おしく感じられた。そして、それと共に、そこに平和に寝転がっていられること、周りに一緒に桜を見てくれる人たちがいること、そして、移り変わりながらも平穏に続いていく毎日がすべて、とても愛おしく思えた。

その頃から花見では、やっと上を見るようになった。
思えば、きっとあの頃、初めて自分が年を取っているという実感を得たのだろうと思う。今まであまり気付くことのなかった四季の移り変わりや、時の流れを感じられるようになって、「桜の季節」も感じられるようになった。——そうして温かな春の日差しの下で桜を見ることは、かつて暖房もまともにない厳しい冬を過ごした世代には、どれほど安心感のある、ありがたい光景だっただろうか。桜を好きになるのも当然だ。
子供の頃は「冬」って言ったら、「クリスマス→プレゼント、冬休み→自由、お正月→お年玉=パラダイス」という図式しか頭に浮かんでいなかったので、たぶん外が寒いということにも微妙に気がついていなかった気がする。(あの頃の小学生の男子というのはそれぐらいバカでした。)今ぐらいの季節になると「やだなあ、寒いなあ」と思う年になったから、春の日差しをありがたく思えるようになったのだと思う。

春の花見からさらに過ぎること十年。最近は紅葉もきれいだな、と思えるようになった。ぼくが小学生の頃、大人たちが見ていた景色と同じものが、やっとぼくにも見えるようになったのかもしれない。
そうなってみて、初めてあの頃の花見の意味が少し分かる気がした。きっとお酒やいなり寿司はどうでも良かったのだろう。食べ物も、飲み物も、なくったってよかった。大人たちはただ、今年もまた無事にみんなが元気で、季節を一周したことを祝いたかっただけなのだろう。

黄色に染まったイチョウ並木を見上げながら、そんなことをぼんやりと考えた。

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白くなった背表紙

11月 24th, 2009 — 5:09am

 昔の書店が好きだった。
 今のチェーン店のように、整然とした大きな店内に、まぶしいほどの明かりが降り注いで、いつも最新の書籍だけが入れ替わり立ち替わり消えて行く、そんな書店ではなくて、昔の書店――そう、六畳から十畳ぐらいしかない空間に作り付けの木製本棚が並び、いつまで経っても同じ本がずっと並んでいる、そんな本屋が好きだった。レジの後ろから裏の家につながっていて、その敷居にのれんがかかっている書店。スライド式の安いガラスドアを開けると、石油ストーブの匂いが充満していて、おじいさんかおばあさんがレジの後ろでじっと雑誌なんかを読んでいる、あの昔の書店が好きだった。
 うちのすぐ近くにもそんな書店があった。雑誌やマンガの新刊が多少は入れ替わるものの、下の方の棚はいつも同じ本が並んでいた。ぼくが小学校の間中、ずっと売れ残っていた本もあった。「売れ残り」のラインアップは今でも言えるぐらいだ。楳図かずおの「アゲイン」、水島新司の「銭っ子」、手塚治虫の「ザ・クレーター」、そして作者名は定かではないが少年チャンピオンコミックスの「スーパー巨人」など、実に香ばしい品揃えだった。マンガの棚は窓際にあったので、日が当たって背表紙が白くなりかけていたが、お店のおばあちゃんはそんなことを気にもせず、いつも金魚鉢にエサをあげていた。
 店の隅には回転するラックがあって、そこには「まんが日本むかし話」のペラペラの絵本が入っていた。そのとなりには木の箱を裏返したものに大人用の週刊誌が並べられている。表紙をめくると女の人の裸が載っているのは知っていたが、けっきょく一度もめくる勇気はなかった。
 床はコンクリートの打ちっ放しで、店内の薄暗い蛍光灯は球切れ寸前でよくチカチカしている。明らかにスペースが不足していて、入りきらなかった本は棚の一番上に横にして積まれている。もはや、何が何冊あるのかさっぱり分からない状態だ。ドカベンの5巻があっち、12巻がこっち、34巻が棚の隙間に……と、秩序も何もない。しかも、その秩序のない状態が凍り付いたように何年も続くので、もはや店内は時が止まっているかのようだ。夏は蚊取り線香、冬は灯油の匂いが本のインクとかびた紙の匂いに混ざって、なぜか不思議と安心感のある空間だった。
 中学生になって、高校生になって、気がつけば何ヶ月もその書店に行かないこともあったが、それでも顔を出せば、やっぱり同じマンガがずっと置いてある。もはや背表紙が完全に真っ白で、取り出してみないと何のマンガだか分からなくなっているものもあった。古ぼけた商店街だった書店の周りには、いつしか大きなスーパーが立ち、古いトンネルは立体交差に生まれ変わって、横断歩道も塗り直されたけれど、その書店だけが時間の流れを拒むかのように同じ姿で立ち続けていた。
 大人になって、ある日、車で前を通ると、書店が建物ごと消えてなくなっていた。ぼくは思わず車を路肩に寄せて止め、肩越しに後ろを振り返って、驚くほど跡形もなくなったその場所をしばらく茫然と眺めた。しばらくしてその場所はコインパーキングになって、やがて区画ごと潰され、今は大きなマンションが建っている。おそらくあのマンションに住んでいる人たちは、昔そこに金魚鉢のある本屋があったことを知る由もないだろう。
 けっきょく白い背表紙のマンガたちは最後まであの書店と運命を共にしたのだろうか。——それがとても気になる。もしなくなると分かっていたら、あの白くなった背表紙のマンガを一冊は引き取っておきたかった。そうすれば、あの書店の匂いを、今でも嗅ぐことができただろうに。 

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座右の銘2009

10月 22nd, 2009 — 8:45am

(2009/1/28のmixiより一部改稿)
相変わらず世界中で人間がケンカをしている。
「戦争」や「欲望」や「偏見」に、「論争」や「理論」で立ち向かっても、ましてや「武力」や「圧力」で対抗しても、ただただ終わらない悪意のループになるようにしか思えない。 それよりも、「楽しいもの」、「心温まる話」、「本当に夢中になれる遊び」、そして「美しい芸術」がたくさん生まれることで我々は生き延びていけるのではないだろうか。
「遊び」と「エンターテインメント」と「アート」が最後には「悪意」に勝つ、とぼくは信じたい。

いくつかそんなぼくの気持ちを代弁してくれるような言葉がある。
メモ代わりにここに一覧にしておこうと思う。

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「CALAMVS GLADIO FORTIOR (ペンは剣よりも強し)」

あまりに有名な文言。ぼくが通った大学のモットーでもある。
そうであってほしいと心から願う。

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「重いカルチャーをオモチャーという」
ナムコが80年代にファミコンのソフトの広告に使ってたコピー。
ユーモラスだけど、なぜか今も心に残っている。

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「想像は知識よりも強い
 神話は歴史よりも正しい
 夢は事実よりも重たい
 希望は経験に勝る
 笑いは悲しみを癒す
 そして、愛は死よりも強い」

フルジャムの六箇条。ぼくの座右の銘。(日本訳はぼくのバージョン)

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「Here’s to the crazy ones.
 The misfits.The rebels.The troublemakers.
 The round pegs in the square holes.
 The ones who see things differently.
 They’re not fond of rules.
 And they have no respect for the status quo.
 You can praise them, disagree with them, quote them, disbelieve   
 them, glorify or vilify them.
 About the only thing you can’t do is ignore them.
 Because they change things.
 They push the human race forward.
 While some see them as the crazy ones,
 we see genius.
 Because the people who are crazy enough to think
 they can change the world, are the ones who do.

 クレイジーな人たちがいる。
 反逆者、厄介者と呼ばれる人たち。
 彼らをクレイジーという人もいるが、私たちは天才だと思う。
 自分が世界を変えられると、本気で信じる人たちこそが、
 本当に世界を変えているのだから。」

アップルのThink Differentキャンペーンのナレーション。
日本語は要約。ただの広告にこれほど感動したのはあとにも
先にもこの作品だけ。

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「けっきょく最後は人間、心出るよ」

ある有名な落語家の名人が亡くなる前に弟子に
「どうしたらいい芝居ができるか」という質問に対して
残したアドバイス。
テレビで一度聞いただけで、残念ながら名前も憶えていないのだが、
以来何かにつけて思い出す言葉。
年々、その意味を実感させられている。

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「みんなが右隣の人に親切にしてあげれば、みんなが左隣の人に親切にしてもらえるのにね」

うちの母の言葉。

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ソースにまつわる話

10月 11th, 2009 — 4:06am

ワンパラを休載していた期間、一時期mixiにごく身内に向けて書いていた日記があるのですが、そのうちの一部を時々こちらで再掲載させていただこうと思います。今回は最初の一回。もちろん新しいワンパラも書き続けます。

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(2007/11/22の日記より)

 今、昼ご飯にとんかつを食べていてふと思った。このかけているブルドッグのとんかつソース。味も容器もぼくが小学生の頃からほとんど変わっていない。コンビニでは新製品のほうが既製品よりも多く並んでいる昨今、三十年以上、何も変わらずに同じであることは、もうそれだけでよほどの価値があるのではないかと思う。
 このソースのボトルは思えば、三十年、ぼくの人生の至るところに登場している。
 子供の頃、我が家では親がウスターソース派で、とんかつソースというのを使ったことがなかった。ところが小学校に上がったぼくが給食でとんかつソースを食べて感激したことにより、向山家にはじめてトンカツソースという文化が流入した。以降、とんかつソース派とウスターソース派の二派に別れた我が家は、フライものの日、絶えず激しい言い争いになった。
 トンカツソースを教えてくれた小学校の給食。
 コロッケとかフライ(主にくじら)の日には給食室からとんかつソースがまるまる一本上がってくる。これを順番に回して、少しずつかけていくのだ。しかし、目盛りや目安があるわけではないから、公平感などポケモンの糞にも満たない小学生のやること――当然、最初の方の子供は多くかけ、最後の方の子供は涙を呑むことになる。しかも、席が固定されていたクラスではいつも得をするやつと損をするやつが決まっていて、理不尽極まりない制度だった。
 昭和というのはそういうアバウトなことが平気でまかりとおる時代で、ガキ大将っぽいやつは先にソースを奪って大量にかけ、いじめられっ子はソースなしでコロッケを食べていた。しかも、本人たちも、周りの連中も、先生すらも、それがあたりまえだと思っていたふしがある。世の中というのはそういうものだった。ソースをたくさんかけられる子供になりたかったら、強くなるしかなかったのだ。
 小学校高学年の時にはこのソースをめぐって問題が起きた。
 例によって、ソースをフライングゲットしようとした体育会系のFくんがクラスの中でも一番発言力のある女子、Tさんの順番に割り込んでソースを奪ったため、一気にソースボトルのつかみ合いが勃発した。
 激闘の最中、哀れソースボトルはキャップがはじけ、ソースの大半が床にこぼれた。この時点でソースをすでに使用していた子はわずかに一列。大半の子はソースが宙を舞った瞬間、その日の自分のカツはそのまま食べることになるのを悟った。いきなり泣き始める女子あり、Fくんと殴り合いになる男子あり、一列目のソースを奪おうとする者あり、床のソースをすくおうとするものあり、もう一瞬で教室内は阿鼻叫喚である。先生がかけつけて騒動を収めるまで、クラスは一時期配給を受け損なった難民キャンプの様相を呈した。
 十代の後半、入院した時には塩分制限を受けて、ソースを使うことができない時期が一年ぐらいあった。ぼくの入院していた病院の患者は大半が塩分制限を受けているのに、なぜか売店では堂々とソースが売られていて、それをこっそり買ってベッド脇の棚に隠している入院患者があとを絶たなかった。時々、看護師に持ち物チェックされている人までいた。さながら麻薬取調官のように、看護師のお姉さんが棚の中を調べ尽くし、ソースや醤油などを没収している光景があっちこっちで見られた。
 ぼくは自分でこそ「密輸」をしなかったが、となりのおじさんにソースを分けてもらったことは何度かあった。ぼくらの間では禁断の味だったそのソースのことを、看護師にばれないように、当時ぼくらは「ブツ」と読んで、隠語で取引をしていた。「ブツ」一回分と引き替えに、ぼくは家から送ってもらったチョコボールをよくおじさんに横流しした。
 東京で一人暮らしを始めてからはしばらくソースが家にない暮らしが続いた。何しろとんかつソースを使うような料理を作ることなど皆無である。そういったものは外で食べるので、家にソースを置いておく必要がなかった。あるのはせいぜいほかほか弁当で余分についていたソースのパックぐらいのものだった。
 二十代後半になって、再び自分で料理を作ろうと考えた頃、久しぶりにスーパーでソースを買った時のことを覚えている。おそらく上京してから、初めて買ったソースだと思う。関東にもまったく同じブランドのものが売っていることにちょっと喜んだ記憶がある。
 台所の戸棚にソースのびんが置いてあると、なんとなく落ち着く。ちゃんと生活をしているのだという気がしてくる。醤油や味噌、砂糖や塩はさすがにふつうにあった。マヨネーズなども案外買っていた。ただ、ソースだけはなんとなく余裕がなければ買わない調味料だったように思う。とんかつソースの横に、さらにウスターソースが並んだ日には、やっと人間らしい生活に自分が戻れたことを実感した日であった。
 今、こうしてソースをかけながらそんなことをふと考えた。
 もし、毎年のようにソースの味やパッケージが変わっていたら、こんなように記憶に残っていただろうか。
 同じものが同じ風景の中にある。
 あたりまえにあるものが、あるべきところにある。
 その価値が分かるようになるまで、このソースが変わらぬ姿で存在してくれていたことをただありがたく思いながら、今、とんかつを食べている。

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映像の向こうの現実

10月 9th, 2009 — 4:58am

 昭和の映画を観ると、邦画でも洋画でも、その現実感に圧倒される。日常的な町の風景でも、スターシップ・エンタープライズのコクピットでも、スクリーンの向こうに確かにそれが存在する感覚がある。どんな荒唐無稽な内容の映画であっても、そこに映っているものは、ある瞬間、確かにどこかに存在していた風景だという、揺るぎない安心感がある。たとえそれがセットであっても、確かに存在していたはず。ものに重さがあって、影がある。今にして思えば、これはあたりまえなことだった。
 それが演技であっても、撮影用のセットであっても、その映像に映っているものはたしかに存在したものだった。もちろん編集で合成されていることもあった。でも、それでさえ、ただ別々に撮影されただけで、存在するものには違いなかった。ゴジラもエイリアンも、機械だったり着ぐるみだったりはしても、映像に映ったからには、確かに何らかの形で存在していたはずなのだ。
 役者もそうで、たとえ大統領でも、宇宙人でも、戦国武将でも、少なくともその衣装を着た人間は存在していた。それはあたりまえすぎて、当時は思いもしないことだったが、実は大変な安心感をぼくらにもたらしていたような気がする。
 そんな映像の世界にCGが生まれてそろそろ四半世紀。最初はタイトル画面ぐらいでしか使われていなかった技術が、今では映画のあらゆるところに用いられている。背景をCGで作っていた頃はまだ良かった。やがて、乗物や怪物がCGとなり、避けられるぬことであるように、役者にもCGが用いられるようになった。結果、昔では考えることもできなかったような凄まじい映像や、見たことのない世界を作り出すことができるようになったけど、その一方で映像から現実感がどんどん薄れていった。
 もはや映画の中には重力も天気もない。人間は何メートルでもジャンプできるし、どんな体勢でも着地できる。朝も夜も関係ない。光の色なんて編集段階でいくらでも変えられる。その気になれば全部のシーンを昼間に撮影して、夜の映画を作ることだって可能だろう。屋内、屋外も関係ない。どこで撮影しようが、背景はあとで何にでも変えられる。それどころか、実際のところ、俳優も舞台も、カメラすらもいらない。まったくのゼロからでも、もはや映画は製作可能だ。
 今の映画の画面は虚構の固まりだ。そこに映っている背景はおろか、人間すら本物かどうかを絶えず疑って映画を観ないと行けない。そこに現実の重みは存在しない。ただ恐ろしく精巧な紙細工が、数秒数千万円で高速に動き続けている。おそらく今から百年ぐらい経って、今の時代の映画を見返したら、多くの映画はそれがいつの時代、どこの国で、なんのために撮影されたか分からなくなるのではないだろうか。
 最近、映画館にいる時、よくこんなことを思う。
 地球が絶滅したあと、どこかの宇宙人が地球の調査に来て、誰かの映画のコレクションを発見する。最初に見るのが「パイレーツ・オブ・カリビアン」。彼らは思うだろう。なんとも奇妙な世界だと。しかし、次に観る映画はマトリクスだ。これは違う国の映画なのか、あるいは違う時代なのか? そして、なぜ地球人というのはこうも生命観が稀薄な存在なのか?
 あまりにも今の映画に慣れていると、昔の映画を観ると、そこに映っている現実感に圧倒されることがる。まるでどこかの街角にカメラを備え付けて、それで道行く人を撮ったかのような生のリアリティー。空気まで感じる記録。
 映画だけでなく、ぼくらのこの目も、今は同じように現実感がない映像を見ているのではないだろうか。ネットの映像、テレビの風景、携帯からの声、便利な乗り物の窓から眺める、流れていくだけの触れない風景。例えばよくできたオカルト映画を観たあと、少し周りが不気味に見える。明るく前向きな映画を観たあとは世界が輝いて見える。だったら虚構に満ちた映像を毎日見続けるぼくらの目には、この世界はどう映るのだろう。
 そう思うと、少し怖くなる。

――――――――――――
【おしらせ】
「宮山麻里枝」さんというのは、スタジオのスタッフ宮山香里の実のお姉さんで、ドイツの映画監督さんです。ぼくも個人的に仲良くしてもらっている素敵な女性監督なのですが、彼女の最新作「赤い点」がまもなく東京の二つの映画祭で公開されます。映像の中に「現実を納める」ということがどういうことで、それがどんなに素晴らしいかということを、近年ぼくに思い知らせてくれた作品です。世界中ですでに先行公開され、大絶賛されています。お近くの方はぜひどうぞ!(詳細はこちらまで
「絶叫仮面」のアニメで少し協力してもらったことをきっかけに、今後、麻里枝さんとスタジオでの共同製作作品も出てくるかもしれません。どうかお楽しみに!

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記憶の収納

9月 18th, 2009 — 12:50am

 ぼくの記憶はどうやら十年単位で整理されているようで、とにかく当面脳に入れておかないといけない事柄――パソコンでいうのならメモリ上にあるデータってことになるのだろうか――を除くと、ほかのすべての記憶は十年ごとに区別された箱の中へと放り込まれている。

 一番近い十年の箱の中身はまだかなり具体的に残っている。例えば、どこかへ出かけたとすると、どこのレストランで何を食べたかまで、よく考えれば思い出せるぐらい詳細な内容が記録されている。もらったものも、かなり些細なものまで誰から何の機会にもらったのかを思い出せる。原稿も十年前までだと、ぱっと見ただけでそれが何を書いたものだったかすぐに頭によみがえってくる。

 ところが十年が経過すると、これらの記憶は次の「10ー20年前の箱」へと移される。こうなると、記憶容量をケチるためか、極端に情報がそぎ落とされるらしい。どこかへ出かけた記憶は場所と、いくつかの印象的なシーンのみに還元され、食べたものなどの細かいディテールはひどく曖昧になってくる。たまに整理に失敗しているのか、ほかのデータと混ざって、二つの思い出がひとつにくっついたりすることもある。さらに圧縮の過程で時々都合の良い解釈が入るのか、ところどころ記憶が美化されていたり、端折られていたりもする。

 もらったものは、相当印象深いものか、極めて大事な人にもらったものぐらいしか思い出せなくなっている。ほかのものは「もらったもの」という大きなカテゴリーでくくられてしまうが、その頃にはたいていそのもらったもの自体、すでに存在していないので、さほど問題はない。

 原稿も十年以上前のものとなると、部分的にいくら考えても自分で書いたことが思い出せないものが出てくる。なんとなくところどころのフレーズに記憶があっても、実際に書いた瞬間の記憶そのものは完全に消失していたりすることが多い。ただし、うっかり深夜に書いて、人目につかないように封印していた詩などに関しては、なぜか克明に思い出せたりするから不思議だ。

 こうしてさらに記憶も二十年を経ると、今度は「20-30年前の箱」に移されるのだが、この段階でかなり多くの記憶がマイクロフィルム化されて、簡単には再生できない状態に圧縮され始める。ほとんどの記憶は象徴的な一枚の写真をアイコンとして見ることができるだけで、中身はその圧縮されたファイルをゆっくり、いろんなことを考えながら解凍しないと出てこない。場合によっては、解凍してもすでに中のデータが壊れていて、大半の内容が消えてしまっていることも多い。

 中にはいくつか、ほかよりははっきりと残っている記憶がある。この二十年の間、何度か繰り返し再生してきたものだ。中学時代の楽しい思い出などは何度も思い出して、その頃の仲間と話したりしているので、解凍も比較的手慣れていて、思い出しやすい。ただ、あまりにも何度も圧縮解凍を繰り返しているため、変質も激しくて、一部、大げさに改ざんされている記憶などもある。

 そして、三十年。

 どうやらここがひとつの区切りのようで、ぼくの場合、ほとんどの記憶はこのラインを越えると消去されていく。――もっとも、本当には消去されていないのだと思う。ただ、頭の中の倉庫の一番奥深く、幾重にも重ねられた荷物の下敷きになり、ほこりをかぶって、ほとんど見えなくなっているだけなのだろう。それでも現実的に取り出すのは至難の技だ。

 そんな消去された記憶にたまに出会うことがある。

 疲れて、眠って、眠りの世界の奥深い底で、積み重ねられた記憶の箱の中を彷徨い、大昔の箱のひとつに迷い込むことがある。そこではもう名前も忘れていたと思っていた人たちや、とうの昔になくしたものたちがぼくの帰りを待っていてくれる。時の止まった倉庫の、箱の中の片隅でずっとその時の姿のまま、待っていてくれたのだ。眠りから覚めるまでの束の間、その頃のように言葉を交わし、時間を過ごして、それが永遠に続くかのように思えても、朝の光と共に無情に消えてしまう。

 そんな日の朝は少しだけはっきりと「20-30年前の箱」の中身が思い出せる。そして、本当には消えたのではなく、ただ今のことが大切すぎて、少し奥の方にしまっているだけなのだということに気がついて、ほっとしている。

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夏の終わりの憂鬱

9月 10th, 2009 — 2:31pm

夏が終わり、九月に入って、少しずつ気温が涼しくなり始めるこの季節、いつも寂しくなる。

暑かった夏の終焉……迫り来る秋の予感……町からも少しずつ明るい色が姿を消し始める。

青とか、黄とか、赤色102号とか。

そう、町からかき氷が消えて行くのである。かき氷だけではない。「氷製品」すべてが次々に店頭から消えていく。自他共に認める日本一の氷好きとしては、かき氷、フラッペ、フラペチーノ、フローズン、スムージー、スノーコーンなどの氷系甘味があらゆるところで売られる夏が一年で一番のパラダイス。

しかし、理不尽なことにその季節は長く続かない。たいていは七月と八月だけである。なんのいやがらせなのか、どこの店も示し合わせたように九月一日にいきなり氷製品の販売を中止する。それもたいてい何の予告もなく!

ローソンのかき氷も、武蔵野茶房の氷パフェも、鯛焼き屋のつぶつぶイチゴ氷も、ミスドのフルーズンも、みんな9月になると突然消える。しかも、どこの店もまるでかき氷器が仇のように、すぐに取っ払って、その場所に必ず肉まんの蒸し器か、おでんの鍋を置く。そしてこの憎き調理器具たちは秋、冬はおろか、春の終わりまでかき氷器の場所を占領し続けるのだ。コンビニに行って中華まんの機械を見ると、いつも怒りがふつふつとわき上がってくる。「おまえさえいなければ……おまえさえいなければずっとかき氷が食べられるのに……」

そんなわけで九月は毎年少し悲しい。毎度お馴染みのミニストップのハロハロ……案外傑作だったミスドのフルーズン……一度だけ食べた名古屋の名店のかき氷……みんな、もう今ではいい思い出……

仕方ないので、前々から目を付けていた家庭用電動かき氷製造器「アイスロボ3」を購入して、しばらくはこれでやりすごそうと思う。いつか、日本人が自らの過ちに気がついて、肉まんを法律で排除し、年中無休でかき氷を販売し始めるまでは。



<本日はフォントの大きさを調整しようと努力した結果、改行とインデントができなくなってしまいました。二つが同時にできるように引き続き頑張ろうと思います。>

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