Category: mixiより転載


白い夜空

11月 20th, 2009 — 3:37pm

(2007/1/27のmixiより転載)

今日もごみを出しに行くために真夜中にスタジオの庭を横切る。

燃えないゴミを回収に来る業者は、時々午前八時前にやってきたりするので、仕方なく寝る直前に軒先のネットの中にゴミ袋を入れておくのである。これをするのがだいたい午前二時から三時ぐらいの真夜中。当然外は真っ暗である。

大きなゴミ袋をぶら下げて、足早に庭を横切る。なぜ足早かというと、面倒でわざわざジャンパーを羽織ったりしていないため、真冬なのにパジャマオンリーだから、とにかく寒いのである。この格好で外にいられるのはせいぜい一分。その間にすばやく庭を横切り、ゴミ袋を置いて、動物にやられないようにネットを上からかぶせ、ダッシュで家まで戻ってこないといけない。なかなかにサスペンスのある一分間だ。でも、実を言うと、透き通るように冷たい空気が肌を刺す感じを、ぼくはあまり嫌いではない。なんとなく束の間、意識がひどく冴え渡る感じがするのだ。
昔からどうもぼくは夏より冬の方が好きな子供だった。心も体も伸びきってしまう夏よりも、変に緊張感が一本通った冬の方が何もかもリアルに感じられたからかもしれない。

もちろん気温だけではない。冬の静けさも好きだった。いかに東京とはいえ、冬の深夜はさすがに人通りもほとんどない。昼間は車と自転車と排気ガスで埋まっている道路も、まるで人間が滅んだあとの世界のように静かで気持ちがいい。思わず道路に寝転がってみたくなる衝動に駆られたりするが、さすがにそれをやるには36はちょっとムリのある年齢だ。

そして、あまり寒くない夜はゴミ袋を置いたあと、ごく短い間、そのまま夜空を見渡してしまうことがある。この瞬間はぼくにとってちょっと特別な時間なのだ。最初に東京に引っ越してきた十五年前にも、そうやってふと夜空をスタジオの庭から見上げたことがあった。そして、思わず声をあげるほど驚いたことがある。

遠く東の空が、何やら明るいのである。時間は午前二時を回ったところで、どう考えても夜明けにはまだほど遠い。しかし、明らかに遠くの空は白んだように明るいのである。最初は何かの錯覚かと思ったが、数日後のごみの日にもまた東の夜空が同じように明るく白んでいた。

そのあまりに異様な明るさが気になって、もしかしたらその方向に深夜でもやっている巨大なスタジアムか何かがあるのかと思い、わざわざ地図を広げて調べてみたりもしたが、それらしきものは何もなかった。しかも、スタジアムというような規模の明るさではない。見える限り、東の空の端から端までが明るいのである。異様だった。ただ、内心とてもうれしかった。もともとぼくは暗闇が大嫌いなので、夜というのは得意な時間帯ではない。だから夜中でも空が明るいというのは、一人で上京してさびしかったぼくには、なんだかとても心強く感じられたのだった。
いったいなんでかさっぱり分からなかったが、とにかく小平の空は夜中でも明るいということが、変に安心感をもたらせてくれたのである。

あれから十五年。今日も東の夜空がうっすらと明るい。今はもう、あれが都心の上空で新宿のネオンや照明が雲に映し出されて起こる現象だということは知っている。言ってしまえば、あの光は東京という巨大な文明社会が作り出した幻のようなものである。いったい夜空をあれだけ明るくするには、どれほどの灯りをともせばいいのだろうか――考えただけで恐ろしくなる。

でも、当時のぼくは夜中でも明るいところがあると知って、何度も車に飛び乗って、あの明るい場所の下へ向かいたいという衝動にかられた。独りぼっちで寂しくて仕方のない夜、あのうっすらと明るい空はぼくの心をたまらなく引きつけた。あれが新宿あたりの光だと知ってからは、実際に夜中に出かけて行ったこともあった。そして、何をするでもなく、新宿の西口のビル街を深夜に散歩した。きっと今なら警察に停められてしまうだろうが、あの頃はまだそういうことを誰も気にしていない時代だった。

今日も東の空が明るい。ぼくはごみを出して、ついつい空を見上げてしまう。でも、もうあの下へ行きたいとは思わない。あの光がまやかしでしかないことを今はよく分かっている。それに、昔ほど暗闇も嫌いではなくなった。

震えるように身を縮めて、足早に玄関へ戻る。東の空を目指して車を走らせなくても、寝てしまえば朝にはすべてが明るくなっている。ならば今は寝よう。あの下には今日も眠らない人たちがたくさんいるのだろうが、ぼくはもう明日の朝のごみを出し終わったので、寝てもいいのだ。

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加湿器メーカーの陰謀

10月 28th, 2009 — 11:00am

(2007/9/30のmixiより転載改変)

ネットの通販サイトを一時間以上探し回ってしまった。
見つからないのである。加湿器の交換用フィルタが。

毎年のことになるが、これには大変腹が立つ。
加湿器を使っている人なら分かると思うが、だいたいシーズンごとに加湿器のフィルタはカビだらけになってしまうので、どうしても買い換えが必要になる。プリンタのインクと同じぐらいの頻度で交換しないといけないものなのに、これが大型量販店でもめったに売っていない。シーズン初期のある一定期間、多少置いてあることもあるが、たいていはそのシーズンの新機種のものばかりで、旧機種のものは皆無といっていい在庫状況なのが基本だ。

そんなわけで毎年暖房器具の必要性が出てき始める頃、加湿器のフィルタを探し歩くのだが、加湿器そのものが古くなっていってるせいもあって、見つけるのが年々難しくなっている。ましてやうちでは三種類のメーカーの加湿器を使っているため、三つとも在庫のある店を見つけるのが至難の業になってきた。

特にエレファントマークの会社のものはよせばいいのにフィルタが二種類に分けられている。このうちカテキンフィルターとかいう何をしているのかも分からない輪っかが総じてどこも在庫切れなのである。 たぶんエレファントマークの社員たちが給湯室でいれたお茶の葉の絞りカスをプレス機にかけただけのものだと思うのだが、「必需」と書いてあるので仕方なく探し回る。

仕方なくyahooショッピングを見て回り、楽天を調べ倒し、ヨドバシ、ビック、ムラウチと大きい家電店も全部調べたが、けっきょく三種類とも在庫のある店舗はゼロ。やむを得ず、三店舗にバラバラに注文するはめに……。
しかも、それでもひとつは入荷未定という始末。
ふと、いっそ加湿器を新しいのに買い替えた方が早いんじゃないかという考えが頭をよぎったが、それこそメーカーの狙いなのではないかと気がついて、意地でもフィルタを注文することにした。

頭の中でこんな会話が聞こえてきたからである。

某サ○ヨー電機工場にて:
現場主任「工場長、この加湿器のフィルターの生産数って本当にこれでいいんですか?」
工場長「そうだよ。何か問題があるかね。」
現場主任「しかし、これからシーズンなのに月産30コってひどくないですか?」
工場長「いいんだよ。フィルタ簡単に買えたらみんな新しい機種買い替えてくれないだろ。だいたい加湿器なんて、新機種ったって、そんな変わるもんじゃないんだからさ。」
現場主任「しかし、それじゃあまりにも――」
工場長「バカだなあ。十年も同じ加湿器使われてみな。我々加湿器部門なんかつぶれちゃうだろ。もともと掃除してもすぐ目詰まりしちゃうようには作ってるけどさ、それでもしつこく使うやつがいるのよ。だからフィルタ買えなくしてんだよ。」
現場主任「しかし、30はいくらなんでも――」
工場長「言っとくけど、これなんていい方だよ。五年前の機種のフィルタなんか年間5個しか作ってないんだから。しかも、そのうち一個はうちの事務所で使ってるから。」
現場主任「そういえばあの機種いつも目詰まりしますね。そろそろ買い替えた方が。」
工場長「ばか。もったいないだろ。さあ、仕事仕事。」

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ソースにまつわる話

10月 11th, 2009 — 4:06am

ワンパラを休載していた期間、一時期mixiにごく身内に向けて書いていた日記があるのですが、そのうちの一部を時々こちらで再掲載させていただこうと思います。今回は最初の一回。もちろん新しいワンパラも書き続けます。

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(2007/11/22の日記より)

 今、昼ご飯にとんかつを食べていてふと思った。このかけているブルドッグのとんかつソース。味も容器もぼくが小学生の頃からほとんど変わっていない。コンビニでは新製品のほうが既製品よりも多く並んでいる昨今、三十年以上、何も変わらずに同じであることは、もうそれだけでよほどの価値があるのではないかと思う。
 このソースのボトルは思えば、三十年、ぼくの人生の至るところに登場している。
 子供の頃、我が家では親がウスターソース派で、とんかつソースというのを使ったことがなかった。ところが小学校に上がったぼくが給食でとんかつソースを食べて感激したことにより、向山家にはじめてトンカツソースという文化が流入した。以降、とんかつソース派とウスターソース派の二派に別れた我が家は、フライものの日、絶えず激しい言い争いになった。
 トンカツソースを教えてくれた小学校の給食。
 コロッケとかフライ(主にくじら)の日には給食室からとんかつソースがまるまる一本上がってくる。これを順番に回して、少しずつかけていくのだ。しかし、目盛りや目安があるわけではないから、公平感などポケモンの糞にも満たない小学生のやること――当然、最初の方の子供は多くかけ、最後の方の子供は涙を呑むことになる。しかも、席が固定されていたクラスではいつも得をするやつと損をするやつが決まっていて、理不尽極まりない制度だった。
 昭和というのはそういうアバウトなことが平気でまかりとおる時代で、ガキ大将っぽいやつは先にソースを奪って大量にかけ、いじめられっ子はソースなしでコロッケを食べていた。しかも、本人たちも、周りの連中も、先生すらも、それがあたりまえだと思っていたふしがある。世の中というのはそういうものだった。ソースをたくさんかけられる子供になりたかったら、強くなるしかなかったのだ。
 小学校高学年の時にはこのソースをめぐって問題が起きた。
 例によって、ソースをフライングゲットしようとした体育会系のFくんがクラスの中でも一番発言力のある女子、Tさんの順番に割り込んでソースを奪ったため、一気にソースボトルのつかみ合いが勃発した。
 激闘の最中、哀れソースボトルはキャップがはじけ、ソースの大半が床にこぼれた。この時点でソースをすでに使用していた子はわずかに一列。大半の子はソースが宙を舞った瞬間、その日の自分のカツはそのまま食べることになるのを悟った。いきなり泣き始める女子あり、Fくんと殴り合いになる男子あり、一列目のソースを奪おうとする者あり、床のソースをすくおうとするものあり、もう一瞬で教室内は阿鼻叫喚である。先生がかけつけて騒動を収めるまで、クラスは一時期配給を受け損なった難民キャンプの様相を呈した。
 十代の後半、入院した時には塩分制限を受けて、ソースを使うことができない時期が一年ぐらいあった。ぼくの入院していた病院の患者は大半が塩分制限を受けているのに、なぜか売店では堂々とソースが売られていて、それをこっそり買ってベッド脇の棚に隠している入院患者があとを絶たなかった。時々、看護師に持ち物チェックされている人までいた。さながら麻薬取調官のように、看護師のお姉さんが棚の中を調べ尽くし、ソースや醤油などを没収している光景があっちこっちで見られた。
 ぼくは自分でこそ「密輸」をしなかったが、となりのおじさんにソースを分けてもらったことは何度かあった。ぼくらの間では禁断の味だったそのソースのことを、看護師にばれないように、当時ぼくらは「ブツ」と読んで、隠語で取引をしていた。「ブツ」一回分と引き替えに、ぼくは家から送ってもらったチョコボールをよくおじさんに横流しした。
 東京で一人暮らしを始めてからはしばらくソースが家にない暮らしが続いた。何しろとんかつソースを使うような料理を作ることなど皆無である。そういったものは外で食べるので、家にソースを置いておく必要がなかった。あるのはせいぜいほかほか弁当で余分についていたソースのパックぐらいのものだった。
 二十代後半になって、再び自分で料理を作ろうと考えた頃、久しぶりにスーパーでソースを買った時のことを覚えている。おそらく上京してから、初めて買ったソースだと思う。関東にもまったく同じブランドのものが売っていることにちょっと喜んだ記憶がある。
 台所の戸棚にソースのびんが置いてあると、なんとなく落ち着く。ちゃんと生活をしているのだという気がしてくる。醤油や味噌、砂糖や塩はさすがにふつうにあった。マヨネーズなども案外買っていた。ただ、ソースだけはなんとなく余裕がなければ買わない調味料だったように思う。とんかつソースの横に、さらにウスターソースが並んだ日には、やっと人間らしい生活に自分が戻れたことを実感した日であった。
 今、こうしてソースをかけながらそんなことをふと考えた。
 もし、毎年のようにソースの味やパッケージが変わっていたら、こんなように記憶に残っていただろうか。
 同じものが同じ風景の中にある。
 あたりまえにあるものが、あるべきところにある。
 その価値が分かるようになるまで、このソースが変わらぬ姿で存在してくれていたことをただありがたく思いながら、今、とんかつを食べている。

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