Category: 思い出


550トンの衝撃

1月 2nd, 2010 — 10:23am

 ぼくは胸がドキドキしていた。
 もう明日の朝には何もかも終わっているのだ。決して来ることがないと思っていた未来が、すぐ目の前までやってきていた。為す術もなく近付いてくるその最後の瞬間に向けて、ただただ無力に待ち続けるしかない。その時のぼくは他のことが何も手につかなかった。
 今日はコンバトラーVが最終回なのだ。
 最初に知った時は衝撃的だった。たしかに数回前の放送から少しおかしな感じは受けていた。普段は絶対起きてはいけないことが次々に番組の中で起こっていく。前回ではついにコンバトラーVの基地である南原コネクションが爆発。ぼくはテレビの前で口を開けっぱなしにして、その様子をただ茫然と眺めた。そんなはずはない。南原コネクションがなくなるなんてあり得ない。今まで何度もピンチにあったけど、そのたびに切り抜けてきたじゃないか。ただ、そう心の中で繰り返していた。
 たたみかけるように、放送の最後に告げられた衝撃の言葉:「次回、感動の最終回!」
 ぼくはテレビの前で放心状態になった。
 しばらくして、台所で夕ご飯の後片付けをしている母親のところに行って、壁に力なくもたれかけた。母親はまさか息子が人生最大の絶望を抱えて後ろにいるとは夢にも思わず、家事をしていた。
 コンバトラーVは終わらないものだと思っていた。
 ぼくが大人になるまで当然ずっと続くものだと思っていた。これからも毎週毎週コンバトラーVを見ながら、ぼくは大人になっていく。そう信じていたのだ。
「ママ。コンバトラー終わるって」
 ぼくは皿を洗っている母親に言った。言葉に出すと、堪えていた涙が少しこぼれた。
 でも、母親はそれに気がつかなかったようで「あ、そうなの。残念ね」とだけ、なんでもないことのように返事をした。大人にとってはコンバトラーVが終わるなんてなんでもないことなんだ。それが分かって余計にショックだった。
 人生で最初に憶えた歌はコンバトラーVの主題歌だった。音楽の素養がない家に育ったもので、小学校一年に上がるまでレコードの存在すら知らなかった。だから親友のタケラに小学校の登校路で一小節ずつ教えてもらった「コンバトラーVのテーマ」が初めて「歌」という存在に触れた瞬間だった。学校で辛いことがあっても、友達とケンカをしても、コンバトラーVがあれば平気だった。
 あと一週間後。一週間後が来たら、ぼくはもう二度とコンバトラーが動くところを見られなくなる。それは日に日に実感を増して襲ってきて、どうにかできないものかと人生で初めて本気で悩んだ。そして、考えた末、ぼくには何一つそのことを止める方法がないことを思い知らされて、やはり人生で初めての無力感に苛まれた。
 結局唯一思いついたのが、父親のスピーチ録音用のテープレコーダーを貸してもらって、それでコンバトラーVの最終回を録音することだった。それまで何かをまじめに練習などしたことのないぼくだったが、その一週間は何度もテープレコーダーの録音に失敗しないように、必死に特訓した。テープの録音ボタンを押してから何秒後に実際に録音が始まるか、感覚で分かるまで何度も練習をした。でも、練習をすればするほど、コンバトラーVが本当に終わるのだということをただただ、余計に思い知らされるだけだった。
 最終回当日は学校でもコンバトラーのことばかり考えていた。筆箱にコンバトラーVのイラストが描いてあったので、ずっとそれを眺めていた。本当に――本当に今夜、コンバトラーVが終わるのだろうか。そんなとんでもないことが起きるのに、なんで世界は少しも変わりなく動いているのだろう。あたりまえに授業をする先生たちも、すでに次の番組を楽しみにしている同級生たちも、みんな信じられなかった。彼らは分かっているのだろうか。コンバトラーVは今日でもう見られなくなるのだ! それがどんなに恐ろしいことか、なぜ誰にも分からないのだろう。
 夕飯を適当にすませ、コンバトラーVが始まる一時間前にはもうテレビの前に座っていた。いつもなら六時台はあまり好きなものをやっていなかったので、テレビをつけっぱなしで寝転んで漫画を読んだりしていたが、今日はずっとテレビの前に座っていた。なぜか自然と正座をしていた。
 いよいよ直前の番組が終わって、提供のテロップが流れ、CMが始まった。あと二分。あと二分後にぼくの最後のコンバトラーが始まる。泣きそうになったけど、そんな余裕はなかった。一秒でも見逃すまいと、ぼくはテレビに至近距離まで近付いて、テープレコーダーのスイッチを入れた。もしかしたら涙を死にものぐるいで我慢したのも、その時が初めてだったかもしれない。
 コンバトラーVが終わるぐらいだから、もしかしたら、すべてのことはいつか終わるのかもしれない。
 ふと、番組が始まる刹那、そんなことが頭をかすめた。今まで考えたこともなかったけれど、もしかしたらぼくが永遠に続くと思っているこの「小学生」という時間もいつか終わりが来るのかも知れない。とても信じられないけど、近所をよく歩いているあの黒い制服姿のお兄さん、お姉さんたちと同じ服を着て、歩く日が来るのかもしれない。女子に興味を持ったり、泳げるようになったり、父親よりも背が高くなったりする日が来るのかも知れない。それはあまりにも途方もない考えで、想像すら難しかったけど、半年前にコンバトラーVが最終回を迎えることだって、やはりぼくには想像できなかったはずだ。
 CMが終わった。
 おもむろにオープニングの「V、V、V、ビクトリー」が流れ始めたので、ぼくはすべての思考を振り払って、テレビに集中した。今はいい。今は先に広がる未来も、これから先のこともどうでもいい。今はコンバトラーVの最後を目に焼き付けておくのだ。——もしかしたら、いつかこんなこともみんな笑い話になるのかもしれない。でも、今はとても信じられない。胸が締め付けられる。ほおがひきつる。コンバトラーVが終わってしまう。
 ぼくの大好きなコンバトラーVが終わってしまうのだ。

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秋に思う

11月 29th, 2009 — 1:09am

「花見? 花見って、何が楽しいの?」
小学校の時、家の上の高台で花見をしようと提案してくれた母親に対して、ぼくが言った言葉だ。ひどい言い方だけど、まあ、小学生の男子が「花見」に持っている意見の大多数はカバーしていると思う。

そう。あの頃は桜を見て何が楽しいのか、まったく分からなかった。「だいたい桜って花じゃないじゃん。木じゃん」みたいなことを言っていた、実にいやな小学生だったと思う。おまけに時代は昭和。花見のお弁当と言えば、いなり寿司とか、かんぴょう巻がメインで、運が悪ければ卵焼きさえ入っていない始末。焼酎だけあれば満足のおじさんたちはともかく、唐揚げひとつ、ウィンナー一本も入っていない弁当だけで、何時間も桜の木の下にいるなんて修業か!——というのがぼくの当時の素直な心境だった。それでも大人たちは何かにつけて、花を見に行こうと高台の公園にぼくら子供を連れて行った。チューリップかられんげまで、なんでも見に行く。やっと夏が終わって、たいていの花が枯れて安心していると、今度は紅葉を見に行こうと言い出す。「あれこそ花でもなんでもないだろ。枯れ木じゃん」というぼくの意見はいつも軽くスルーされた。

それからの人生でも、何度か花見には行った。いずれも自分から喜んで出かけたわけではなかったが、平成に入ると花見の弁当もずいぶんよくなったし、東京に出てきてからは花見の名所に行けば、屋台や催し物もやっていたので、そこそこ楽しめるようにはなった。それでも、見ているのはいつも下の弁当の方で、上の桜には目もくれず帰ることも多かった。その頃のぼくの解釈は:「みんなきっと桜なんかどうでもいいんだな。集まるための言い訳なんだ」というものだった。

たぶん桜を初めてちゃんと見たのは二十代の後半になってからだったと思う。
花見の途中にふとレジャーシートの上に寝転がってみた。すると、わずか2メートルほど上空が桜の花びらでいっぱいになった。さらさらと揺れる淡いピンク色の花びらの向こうに、高く広がった青空がどこまでも続いていて、じっと見ていると吸い込まれそうだった。そよ風が吹く度、桜の花びらが頭上を舞い散って、ヒラヒラと地面へと落ちていく。こんなささやかな風でさえ、散るほど儚い花びらだった。

そうか。この桜は今しか咲いてないんだな、とふと思った。
来週ここに来て寝転がったら、もう桜はないんだなと思うと、なぜか急にその光景がとても愛おしく感じられた。そして、それと共に、そこに平和に寝転がっていられること、周りに一緒に桜を見てくれる人たちがいること、そして、移り変わりながらも平穏に続いていく毎日がすべて、とても愛おしく思えた。

その頃から花見では、やっと上を見るようになった。
思えば、きっとあの頃、初めて自分が年を取っているという実感を得たのだろうと思う。今まであまり気付くことのなかった四季の移り変わりや、時の流れを感じられるようになって、「桜の季節」も感じられるようになった。——そうして温かな春の日差しの下で桜を見ることは、かつて暖房もまともにない厳しい冬を過ごした世代には、どれほど安心感のある、ありがたい光景だっただろうか。桜を好きになるのも当然だ。
子供の頃は「冬」って言ったら、「クリスマス→プレゼント、冬休み→自由、お正月→お年玉=パラダイス」という図式しか頭に浮かんでいなかったので、たぶん外が寒いということにも微妙に気がついていなかった気がする。(あの頃の小学生の男子というのはそれぐらいバカでした。)今ぐらいの季節になると「やだなあ、寒いなあ」と思う年になったから、春の日差しをありがたく思えるようになったのだと思う。

春の花見からさらに過ぎること十年。最近は紅葉もきれいだな、と思えるようになった。ぼくが小学生の頃、大人たちが見ていた景色と同じものが、やっとぼくにも見えるようになったのかもしれない。
そうなってみて、初めてあの頃の花見の意味が少し分かる気がした。きっとお酒やいなり寿司はどうでも良かったのだろう。食べ物も、飲み物も、なくったってよかった。大人たちはただ、今年もまた無事にみんなが元気で、季節を一周したことを祝いたかっただけなのだろう。

黄色に染まったイチョウ並木を見上げながら、そんなことをぼんやりと考えた。

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白くなった背表紙

11月 24th, 2009 — 5:09am

 昔の書店が好きだった。
 今のチェーン店のように、整然とした大きな店内に、まぶしいほどの明かりが降り注いで、いつも最新の書籍だけが入れ替わり立ち替わり消えて行く、そんな書店ではなくて、昔の書店――そう、六畳から十畳ぐらいしかない空間に作り付けの木製本棚が並び、いつまで経っても同じ本がずっと並んでいる、そんな本屋が好きだった。レジの後ろから裏の家につながっていて、その敷居にのれんがかかっている書店。スライド式の安いガラスドアを開けると、石油ストーブの匂いが充満していて、おじいさんかおばあさんがレジの後ろでじっと雑誌なんかを読んでいる、あの昔の書店が好きだった。
 うちのすぐ近くにもそんな書店があった。雑誌やマンガの新刊が多少は入れ替わるものの、下の方の棚はいつも同じ本が並んでいた。ぼくが小学校の間中、ずっと売れ残っていた本もあった。「売れ残り」のラインアップは今でも言えるぐらいだ。楳図かずおの「アゲイン」、水島新司の「銭っ子」、手塚治虫の「ザ・クレーター」、そして作者名は定かではないが少年チャンピオンコミックスの「スーパー巨人」など、実に香ばしい品揃えだった。マンガの棚は窓際にあったので、日が当たって背表紙が白くなりかけていたが、お店のおばあちゃんはそんなことを気にもせず、いつも金魚鉢にエサをあげていた。
 店の隅には回転するラックがあって、そこには「まんが日本むかし話」のペラペラの絵本が入っていた。そのとなりには木の箱を裏返したものに大人用の週刊誌が並べられている。表紙をめくると女の人の裸が載っているのは知っていたが、けっきょく一度もめくる勇気はなかった。
 床はコンクリートの打ちっ放しで、店内の薄暗い蛍光灯は球切れ寸前でよくチカチカしている。明らかにスペースが不足していて、入りきらなかった本は棚の一番上に横にして積まれている。もはや、何が何冊あるのかさっぱり分からない状態だ。ドカベンの5巻があっち、12巻がこっち、34巻が棚の隙間に……と、秩序も何もない。しかも、その秩序のない状態が凍り付いたように何年も続くので、もはや店内は時が止まっているかのようだ。夏は蚊取り線香、冬は灯油の匂いが本のインクとかびた紙の匂いに混ざって、なぜか不思議と安心感のある空間だった。
 中学生になって、高校生になって、気がつけば何ヶ月もその書店に行かないこともあったが、それでも顔を出せば、やっぱり同じマンガがずっと置いてある。もはや背表紙が完全に真っ白で、取り出してみないと何のマンガだか分からなくなっているものもあった。古ぼけた商店街だった書店の周りには、いつしか大きなスーパーが立ち、古いトンネルは立体交差に生まれ変わって、横断歩道も塗り直されたけれど、その書店だけが時間の流れを拒むかのように同じ姿で立ち続けていた。
 大人になって、ある日、車で前を通ると、書店が建物ごと消えてなくなっていた。ぼくは思わず車を路肩に寄せて止め、肩越しに後ろを振り返って、驚くほど跡形もなくなったその場所をしばらく茫然と眺めた。しばらくしてその場所はコインパーキングになって、やがて区画ごと潰され、今は大きなマンションが建っている。おそらくあのマンションに住んでいる人たちは、昔そこに金魚鉢のある本屋があったことを知る由もないだろう。
 けっきょく白い背表紙のマンガたちは最後まであの書店と運命を共にしたのだろうか。——それがとても気になる。もしなくなると分かっていたら、あの白くなった背表紙のマンガを一冊は引き取っておきたかった。そうすれば、あの書店の匂いを、今でも嗅ぐことができただろうに。 

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ハロウィンは日本に来たか

11月 5th, 2009 — 7:52am

 近頃、日本でもすっかりハロウィンが定着しつつある。
 10月初旬あたりからお店にはグッズが並び始め、ちょっとオシャレなカフェやショップは軒並みハロウィン仕様に変わり、オレンジと黒の飾り付けに骸骨やカボチャが舞い踊る。きっと、そろそろ我が家にもハロウィンを取り入れたいなと思っている日本人も増えていると思うのだが、「けっきょくハロウィンって何するの?」と思っている人がほとんどではないだろうか。
 最近よくそんなことを尋ねられるのだが、困ったことに本家のアメリカやヨーロッパでもそれが今ひとつはっきりしないので、毎回答えに窮している。

 伝統的には子供たちが仮装し、近所の家から家へ「Trick or treat!(菓子よこさないと化かすぞ)」と言って回って、紙袋一杯の大量のお菓子をもらうのがもっとも一般的な行事だ。アメリカに住んでいた七十年代、ぼくもその列に加わって、十人ぐらいの魔女や狼男やお化けと一緒にスパイダーマンの格好で10月最後の夜は息を切らして走り回っていた。
 まだその頃はアメリカも平和で、知りもしない家のドアのチャイムを鳴らして、片っ端からお菓子をもらって回るのにも抵抗がなかった。ぼくの住んでいた町にはさらにローカルルールみたいなものがあって、ハロウィンの夜の6時〜8時はどこの家も大量にお菓子を用意して、子供が来たらどんな見知らぬ子にもひとつかみのお菓子を袋に放り込んでやるのが約束事だった。当然我が家もお菓子を用意していて、ぼくが外をかけずり回っている間、母親は無限に鳴り続けるチャイムを返事するために、巨大なお菓子の袋を持って、玄関の内側で待機していた。
 窓から外を覗けば、それはもう異様な光景で、住宅街の暗闇の中、いろんな種類の小さいお化けがかぼちゃ型の懐中電灯や蛍光塗料の塗られた緑色の仮面をかぶって縦横無尽に庭を横切っていくのが見える。ものすごく精神年齢の低い宇宙人に町を侵略されたら、きっとあんな感じなのではないかと思う。
 しかし、残念ながら近年は「危険」ということで、trick or treatはどんどん規模が小さくなっている。良く知っている近所の家を親同伴で回るだけでは、どうにもあのtrick or treatのカオスな楽しさは出ない。このままではハロウィンはもっぱら「ソウ」の続編の公開日になってしまうのではないかとハロウィン好きのぼくは心配でしょうがない。

 trick or treat意外にも一応ハロウィンに関連する遊びはいくつかある。apple bobbingというなんとも奇妙なゲームがそのひとつで、水に浮かべたたくさんのりんごを口でくわえて取り出すゲームで、正気を失った人が考えた金魚すくいみたいなものだと思ってもらうと分かりやすいかもしれない。
 お化け屋敷もハロウィンの時期、あっちこっちに乱立する。ショッピングセンターが臨時に作るものから、カーニバルスタイルのものまで、どこの町にもひとつかふたつは出現して、ハロウィン終了と同時に一夜にして姿を消す。ぼくが住んでいたアパートの近くの路地でも臨時のお化け屋敷を大学生たちがやっていて、これが手作りのくせにやたらと怖かった。相手は子供だというのに、大学生たちの手加減のなさっぷりがすごくて、中盤で登場する内蔵がはみ出したまま、鎌を持って追いかけてくる死体などは、ぼくの人格形成に一役かっていたような気がする。
 今でもよく覚えているのは、ハロウィンの翌日にその路地に行くと、路地は何事もなかったかのように元通りの路地になっていて、隅っこの垣根の下に一枚だけオレンジ色の飾りが巻き付いていたことだった。「あれは夢だったのか?」と思うほどきれいに姿を消したお化け屋敷が、余計に長くぼくの心に余韻を残した。

 楽しかったのは学校や家で、親や先生がみんなで作ってくれた手作りのお化け屋敷だった。トイレットパーパーの搬出用ダンボール(超巨大)をドラッグストアからもらってきて、それをガムテープで貼り合わせて、家の中に小さな立体迷路のようなものを作り、そこを子供たちが一人ずつ順に通るのが主流のやり方だった。ダンボールの入口には黒とオレンジのカーテンがかけられ、中にはところどころにかぼちゃのランタンが置いてあるけど、かなり薄暗い。子供がおそるおそるその中を進んで行くと、ダンボールに切り込みを入れた外側から、狼のグローブをはめたお父さんがふいに手を突っ込んでくる。
 ドバン! ギャーッ! で、ダンボールの中は走り回る足音でちょっとしたパニックとなり、外で待っている子供たちもそれを聞いて連動したように叫び始める。こうなるともう、いやでもハロウィンムード最高潮である。ダンボールの床にはわざとスポンジで作った段差があったり、小さな扇風機が生暖かい風を送り込んできたりと、けっこう凝ったミニお化け屋敷だった。もう少し周りの子供たちが大きくなったら、うちのスタジオでもぜひこれをやってみようと思う。あの時、ぼくに軽いトラウマを食らわしてくれた近所の大学生たちの熱意を見習って、それはもう本気の本気で怖い奴を。

 そんなわけで、その前準備として、今年は小さくハロウィンパーティーをしてみた。実に二十年ぶりのハロウィンだろうか。「絶叫仮面」のチビキャラたちをあしらったお菓子の袋と、1200円で買ってきた電池式のジャック・オ・ランタンだけのささやかなハロウィンだけど、まあ、何事もはじめの一歩から。

ハロウィン

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私信ですみません

8月 12th, 2004 — 4:23am

実は二日ほど前にメールで懐かしい方からメッセージをいただきました。昔、いっしょうけんめい自主製作映画を撮ろうとしていた時期にたぶん、よく遊んでいた友達だと思います。(「だと思う」というのは、実は差出人が書いてなかったので、文面からの憶測でして。)あまりの懐かしさにすぐメールを返信したのですが、相手側がdocomoのアドレスで、尚かつ迷惑メールの防止のための「指定着信外拒否設定」にしているものと思われ、メールは戻ってきてしまいました。(もしこれを読んでいたら、また連絡下さい。待ってます!)
中学校の頃の友達で、たまにこうして十年とか二十年ぶりにメールをくれる方がいたりすると、本当にうれしくなる時があります。普段はけっこうメールやインターネットというメディアに疑問を感じていたり、時にこれが今の社会をだめにしている現況ではないかと疑ってみたりすることもあるぼくですが、そんな時は素直にこの「ネット」という存在に感謝しています。おそらくインターネットがない時代なら、二度と再会しないままだった人、一度も会うことなく人生を終えた人――がけっこうぼくの人生にはいます。
人生も三十を過ぎて、十代という時期が前世のように感じられる昨今、古い友達からのメールはまるで過去からの便りのように思えます。数行のメールでも、小さな宝物のようです。
擦れ違った数え切れないほどの人。一人一人ともう一度話せたらどれほど面白いだろうと思うことがあります。中学校の時に本気で殴り合った同級生……顔の記憶もおぼろげな初恋の女の子……よく対立していた先生……通っていた駄菓子屋のばあちゃん……いつか新宿の雑踏でゲームの話で盛り上がった見知らぬ学生たち……お金をなくしたのを見つけてくれた警察官……みんな、どこかで何かをして生きているという単純であたりまえのこと……でも、それを一通のメールで確認できるだけで、明日を生きていく元気が出てくる気がします。
そうだ。みんな、どっかでがんばっている。
ぼくもがんばろう。そう素直に思えます。
もし、向山貴彦にこの人生のどこかで擦れ違った人で、憶えていてくれる人がいたら、いつでも気軽にメールを下さい。その時、殴り合ったやつでもいいです。言葉を交わしただけの人でもいいです。今、どうしているか教えてください。きっとインターネットはそんなことのためにあるのだと思うんです。

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仮面ライダーになりたい

9月 16th, 2001 — 3:46am

一ヶ月ぶりの更新です。すみません。
まだまだ途切れがちになると思います。
思った以上に今、作っている英語の本に凝ってしまいまして、大変なことになっています。

ぼくが子供の時、ちょうど70年代半ばから80年代前半までの時期、仮面ライダーとウルトラマンが両方とも最盛期で、男の子は必ずどちらかの大ファンだった。ぼくは仮面ライダー派で、今、当時の写真を見るとどれも変身のポーズで写っていて、見るからに頭の悪い子供である。高杉晋作の記念碑にのっかって、ショッカーの怪人(うちの母)に向かって「行くぞ!」と叫んでいる姿など、時代が時代なら軍法会議もののバカである。――まあ、確かにポーズの種類ででその時放送されていたライダーの種類が分かるので、写真を間違えてアルバムからはがしても、すぐにいつの写真か分かって便利ではある。手をすり合わせているからこれはストロンガーで小四ぐらいか、とか。
しかし、本当にどの写真にもことごとく仮面ライダーになりきって写っているのを見ると、どれほど当時本気でライダーに憧れていたのかがよく分かる。小学校四年ぐらいまでは大人になったら改造手術を受けてショッカーと戦おうと本気で考えていた。さすがに中学生になって、現代の医療では改造手術は無理だということは悟ったが、まだショッカーが改造してくれるかもしれないので希望は捨てていなかった。高校になるとさすがにショッカーもいないことに気がついて絶望したのだが、科学は進歩しているとテレビで言っていたので待っていればそのうち改造手術かショッカーかどっちかが出てくると思って待ち続けることにした。で、今のところ、そのまま現在に至っている。とりあえずどっちもまだ出てきていない。
こうして三十歳になった今、冷静に振り返ってみると自分の人生観、特に「正義感」の周辺における価値観はすべて仮面ライダーから来ているものだと思う。追いつめられたときやピンチの時、ぼくの中の1号ライダーが「こうするべきだろ」と今でも語ってくることがある。何か悪いことをしてしまいそうな時、耳元でV3が「それをやったらもう一生仮面ライダーにはなれないぞ」とつぶやいてくる。仮面ライダーになれない。これはぼくにとって重大な問題である。やはり仮面ライダーにはなりたい。もし技術が整って改造手術が受けられる時代が来ても、適性試験とかがあるかもしれないので、やはり正義の味方たるもの、過去に悪いことをしていたらはねられてしまう可能性がある。
いつかその日が来て、大々的に募集が始まって、七時のニュースで募集に集まった人の列が映されたら、きっとそのほとんどは中年ぶとりした四十台ぐらいのおやじの集まりだになると思う。そして、その行列の先頭で「三日前の朝から並んでます」と質問に答えながら、カメラに向かって変身のポースをやっているのがぼくである。それまでにはちゃんとバイクの免許をとっておかないといけないと常々思っている。

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90年代までレコードを聞いていた理由

7月 18th, 2001 — 3:42am

最近、カセットテープはMDに、ビデオテープはDVDに、ポケベルは携帯に、すかいらーくはガストに、と、約ひとつ関係ないものも混ざったが、世の中がどんどん進化している。十年前の品物がすでにどこにも売っていないものになることなど、昭和の時代には考えられなかった現象である。

時代が移ろい変わり、どこの街角でも見かけたものが、いつしかどこにもないものになってしまっている。初代ファミコン、βビデオ、たまごっち、厚底ブーツ、ダイエー。――まだ消えてないのもあるが、とにかく消えそうなのは確かである。

やまんばメイクのコギャルの皆様も、近頃かなり絶滅の危機に瀕しているので、政府も早急に保護に乗り出すべきだろう。民主党などはできもしない改革を掲げるより、いっそそっちの方を政策にした方が票を集められるかもしれない。

いずれにしろ、こういう移ろいゆく時代を見ていて、ふと思い出してしまうのが、今からもう二十年近く前になるだろうか――レコードがCDにその座を奪われた時のことである。今から考えてみると、あの辺りからすべてが急激に進化し始めたような気がする。


当時のぼくは流行には大変うとい、わんぱくな中学生男子だったので、CDどころかレコードプレーヤーもやっと買ったばかりだった。「将来の夢」の欄に「公務員」と書くような今の中学生男子と違って、当時の中学生男子は底知れないほどバカだったので(当時の中学生男子は「将来の夢」の欄を見ても「将来
」という漢字が読めなかったので、空白にはラーメンマンの絵を描いていた)流行を追うほど頭の回転が速くなかったのである。

だから、ぼくがCDというものの存在に気がついたのは、久しぶりにレコード屋に行って、棚の半分が得体の知れない銀色のディスクに変わっていた時である。音楽好きの友達に聞いてみると「おまえ、遅いよ」とバカにされたので、つい悔しさから「そんなもん流行るもんか」と言ってしまい、つい勢いで「俺は絶対買わないね
」と宣言してしまった。

もう、どのくらい当時の中学生男子が頭が悪いかというと、このくだらない一言の約束のために、90年代に入るまでアナログのレコードを聞き続けるほど当時の中学生男子はバカだった。

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夏の始めに

6月 9th, 2001 — 3:31am

 と、いうわけで再び夏です。
 子供の時の夏は今と違って、それはもう一日が途方もなく長くて、平均だいたい36時間ぐらいあったので、一日がゆっくり過ごせた。特に夏休みが始まってすぐの数日は本当に長かった。どのくらい長かったかというと、夜寝るときには、朝起きたのが三日前になっているほど長かった。
 日曜などは起きて、寝床で「リングにかけろ」全巻を読破してから朝ご飯を食べ、朝のアニメを三本ほど見終わってから、近所の子供と廃品回収をすませ、草野球を一試合しても、まだ昼過ぎだというぐらいのものである。それが今だと日曜日は朝起きて……
 ……朝起きたらだいたい昼である。
 夕方なんかだともっと長い。今はもうファミコンやらインターネットやら合法ドラッグやら、小学生の娯楽もずいぶん広がったので退屈する暇などないと思うが、僕の時はまだビデオもなかったので、テレビのアニメが終わってしまうと、もうあとはすることが何もなかった。せいぜい壁の模様を数えたりとかして暇を潰すぐらいである。
 当然日が暮れてからの外出など厳禁だし、電話も五分以上していたらしかられるので、友達と遊ぶことなど考えもしない。メールも携帯もある今と違って、この時間帯、子供はもう家の中に隔離されていて、朝がくるまで外界と断絶状態だった。
 だからこそ、夏、たまに近所の誰ともなく「花火をしよう」と言い出す人がいると、子供は大喜びで外に出た。日が暮れてから友達と会って遊べるのは、すごく特別なことに思えて、くたくたになるまで騒いだ覚えがある。他愛もない線香花火が盛大なショーに思えた。
 でも、そんな光景も最近はあまり見かけない。今、ぼくの近所では花火は「危険物」なので、やってはならないことになっている。もしかしたら今は花火を鑑賞するソフトとかがあって、それをみんなで眺めているから十分なのかもしれない。
 夏が夏でなくなってきたように思えるけど、それでもまた、夏です。
 いい夏になるといいな。

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火曜だけは何もない3

2月 9th, 2001 — 3:11am

最初のCM抜きに成功すると、次の難関は1時間目の終わりである。すべての番組は10時を回ったところに普通より長い、五分以上のCMが入るのである。これをきちっと見きって調整しないといけないのだが、オープニングと違ってこちらはランダム要素がないので、作業自体は慣れれば簡単なものだった。ただ、ひとつ大変な罠にさえかからなければ。
当時、洋画の裏でやっていたサスペンス系二時間ドラマはこの長いCMの間に多くの視聴者がほかのチャンネルをちょっと見て回ることを熟知していた。特にぼくら中学生は15秒以上じっとしていると脳死してしまう ので、必ずチャンネルを変えた。そこでテレビ局はちょうどこの長いCMの入る時間帯の裏を狙って、毎回女性のシャワーシーンを挿入してくるのである。ぼくらはそれがぼくらの「CM抜き」の芸術を壊す悪魔のささやきだと知っていたが、なぜか、どういうわけか、必ずチャンネルを変えてしまうのだった。そして変えたが最後、そのためだけに雇われた女優(当時は「シャワー要員」と呼ばれていた)の露わな乳に目を釘付けにされ、ジェイソンが再び現れるシーンに間に合わなくなってしまう。
こうした様々な障害をくぐり抜け、無事にすべてのCMを抜き終わり、もうCMが入らないと分かっている10時35分を過ぎると、ぼくらは勝者の溜息をつき、充実感と共にゆっくりとリモコンを置いた。この最後の十五分だけは無条件に映画を楽しむことのできる貴重な時間なのだ。万が一、この間に誰かが間違えてリモコンを踏み、ビデオを消してしまったりした場合、その人間がぼくでない限り、確実に警察沙汰になる事件に発展していた。

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火曜だけは何もない2

2月 8th, 2001 — 3:10am

そんなわけで夜の九時は戦いの幕開けだった。各番組の独自のオープニングが流れる頃には、ぼくらはリモコンを片手にテレビの前でスタンバっていた。戦いは既に始まっている。当時のビデオは録画ボタンを押すだけでは、テープの止まっている位置と若干ずれたところから録画を始めてしまう。きれいにつなぐためには一旦再生して一時停止し、録画ボタンを押した後、一時停止を解除しなければならなかった。問題はこの一時停止状態が五分続くと、機械が勝手に解除してしまうことだった。
映画本編は解説者のトークの後に始まるのだが、このトークの長さが毎回違った。今はなき淀川さんなどは途方もなく長くしゃべることもあるので、一時停止が三分を越えた時点で一旦解除し、作業をやり直さなければならなかった。ジョグダイアルのようなものがない当時のビデオでは、素早く細かい調節をするのは至難の業だったが、ぼくらはそれぞれ自分の愛機の微妙な癖やボタンを押してから画面が止まるまでのタイムラグ(約0.007秒)まで熟知していたので、人間の限界ぐらいの速度でそれを行うことができた。しかし、脈略なくいきなり本編にいってしまったりする淀川さんはよくぼくらが調整中に本編を始めてしまい、最初の数秒を撮り逃すこともしばしばあった。こうなると、なぜかもうどうでもよくなって、テレビを消してしまったりした。完璧主義者のぼくらには、一部の欠けた作品など絶えかねるものだったのだ。(後にほとんど全部の放映作品が大幅にカットされていたことに気がついたが、それとこれとは話が別だった。)
最初のスタートがうまくいったとしてほっとするのも束の間、視聴者の興味を引くために、番組は最初の30分ほどは敢えてCMを挟まない。このため、おもしろい映画などだと、ついこの期間に映画に夢中になってしまい、うっかり最初のCMを抜き忘れてしまうのだった。これは本当に屈辱的なことだったため、よく怒りからこたつの布団にギャラクティカ・マグナムを打ち込んだりして自分を戒めていた。

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