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本日のワンパラ(11/12/29)

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「家庭内治外法権」

 家庭っていうのは怖い。何しろほとんど完全な密室だ。
 ――いや、別に児童虐待とか、そんな大げさなことを言っているわけではなくて。
 覚えがあると思う。親が勝手な独断と偏見で作った「家庭内ルール」のことである。例えば、ぼくの子供の頃の向山家では、今や全国民があたりまえにやっている「シャツの裾をズボンから出す」ということが、宗教上の禁忌のように扱われていた。何しろ、この「シャツが出ている状態」は向山家ではあまりにもよくないことだったので、それを差す専門用語までがあった。「えちょぱっぱ」である。ぼくは長らくこの単語が公式な日本語だと思い続け、小学校で「えちょぱっぱ」になっている奴に向かって「おまえ、シャツがえちょぱっぱになってるぞ」とはやし立て、半年間、あだ名が「えちょぱっぱ」になったことがある。
 一応調べてみたが、これは方言ではない。今、グーグルで”えちょぱっぱ”で検索したので確かだ。全世界数億のサイトを調べた結果、検索結果はゼロだった。”山田太郎のバットは汗臭い”でも三件ヒットするグーグルである(全部うちのサイト)。こんな結果は長らくグーグルを使っていても、あまり見たことがないから間違いないと思う。
 幼い頃の我が家では大きくなるまで独自ルールだと分からずにやっていたことがけっこうある。
 なぜかうちの親は背中を掻くことを「かじる」とよく言っていた。両親どちらかの故郷の方言なのかも知れないが、日本語の作家になった今でも、あまりにもこの言葉が頭に深くインプリントされすぎていて、よく使い間違えてしまう。「ビッグ・ファット・キャットの世界一簡単な英語の本」の冒頭で使った動詞のひとつが「scratched」だったのだが、おかげでこれを訳す時に何度も「猫がエドを『かじった』」と訳してしまい、たかさんが当然のように猫がエドに噛みついている絵を描いてくるので、「ちがう。これはかじってるんだよ!」と言って、スタッフを大混乱に陥れた。ねこぞうが気が付いて、みんなの前でずばり指摘してくれた時には、あまりの恥ずかしさで焼身自殺が頭を過ぎった。
 うちの親は長くアメリカに住んでいたせいもあって、時々驚くようなものの知識が欠け落ちていることがあった。料理なども戦後に流行ったものはあまり詳しくなくて、日本に帰ってからもしばらくカレーのルーに気が付かず、ずっとカレー粉からカレーを作っていた。(おかげでぼくにはなぜ「子供の好きな料理1位」がカレーなのか理解できなかった。)その親がある時、友達の「内藤さん」の家にぼくを連れて遊びに行った時のことだ。まだ幼いぼくが「お腹が空いた」と騒ぎ出したので、親切な「内藤さん」の奥さんが肉のそぼろを作って、それをご飯にかけて出してくれた。小食だったぼくが、それをひどく気に入ってバクバクと食べたので、両親はその料理の作り方を聞いて帰って、それから時々作ってくれるようになった。――ここまではいいのだ。問題は両親がその料理の名前を内藤さんに聞かなかったことである。
 大変ネーミングのセンスのないうちの親は、その料理のことをそのままずばり「内藤さん肉」というとんでもない名前で呼び始めた。何しろぼくも五歳だったので、これがいかに常軌を逸した料理の名前か分かろうはずもなく、「肉そぼろ」の名前はあっさりとぼくの中で「内藤さん肉」に決定した。これが生姜焼きとかオムライスなら少なからず早い段階で気が付く機会もあっただろう。しかし、「肉そぼろ」という単語は実家が弁当屋でも営んでいない限り、そうそう日常に出てくる単語ではない。ぼくは疑問を感じることもなく、そこから小学校五年のある日まで「内藤さん肉」を信じ続けた。
 さらに厄介なことに、我が家ではお漬け物――特に大根の葉などの葉っぱものの一夜漬けを「おこうこ」と呼んでいた。これは西の方のれっきとした方言らしいが、問題はこの大根の葉っぱの漬け物で「内藤さん肉」を巻いて食べるのが向山家でブームになったことだ。その食べ物のことをぼくらは誰からともなく「内藤さん肉おこうこ巻き」という地下プロレスの必殺技のような名前で呼んでいた。
 もう概ね顛末は想像できると思うが、ある時、高菜の漬け物とそぼろご飯が友達の家で出て来たことがあった。ぼくが当然のように高菜でそぼろご飯を巻き始めると、友達たちは怪訝な顔でぼくの方を見始めた。「何してんの?」と聞かれたぼくは前述の「えちょぱっぱ」の経験でまったく学習しておらず、胸をはって「なんだ、おまえら知らないのか――」と、口を開き始めた。後日、ぼくは当然のようにあだ名が「内藤さん肉」になり、給食で肉を食べていると、それが何の肉であろうと「内藤さん肉食ってる」とはやし立てられた。  その後も小学校六年の時に「耳掃除の麺棒」を「耳くちゅくちゅ棒」と呼んで自爆したり、コーヒーが十八歳以下禁止の飲み物だと思わされていたために、コーヒーを飲んでいた友達に「やめろ! 逮捕されるぞ!」と止めに入って、「コーヒー刑事(デカ)」というあだ名ももらったりした。本は大事なものだからどんなものでも古本屋に売ってはいけないというルールもあった。ジャスコにおつかいに行くと、50円のゲームを一回してもいいというルールもあった。お祭りの屋台ではリンゴ飴だけは買ってはいけないという禁もあった。
 ルールはほかにもたくさんあった。そして、面白いことに未だに抜けないものもいくつか残っている。
 緑茶はマグカップで大量に入れること。
 家族の送り迎えは喜んでやること。
 人が来たら座れるところをいつも作っておくこと。
 家はとにかくドアの少ない作りにして、できるだけ大きな部屋にみんなでいること。
 出かける時は必ず家族に「気を付けて」と声をかけること。
 そして、何よりも大事なルールは、ルールを破った時はちゃんと謝ること。
 この最後のルールは子供だけでなく、大人にも適用されていた。うちの母親は三十を越えたぼくに、ある時ふいに思い出したように、「小学校の時に一回理不尽にしかったことがあった」、と謝ったことがある。もちろんぼくの方はそんなことはずっと前に忘れていたのだが、母親はそれを長い間悔いていたらしい。我が家のルールがちゃんと機能していた何よりの証拠だと思う。
 これらのルールはぼくにとって、今も少しも変わっていない。おそらく妹のところでもそんなには違わないで運用されていると思う。願わくば温かいルールに従って、生涯を過ごしていければと思う。変わらなくていいものは変わらなくてもいいのだ。たとえ、それでどんな変なあだ名を付けられたとしても。
 ただ、最後にひとつ、今日から変わることもある。それはこれからグーグルで”えちょぱっぱ”を検索する人は、確実に一件、サイトがヒットするようになることだ。

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本日のワンパラ(11/11/19)

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「爽健美茶の陰謀」

 考えてみれば、ぼくはもともと爽健美茶が好きではなかった。
 初めて飲んだのは大学の時だったと思う。緑茶の味を想像しながら飲んだからだろうか——思わず吹き出しそうになった。友達が「エビだと思って食べると、かにってまずく感じるぞ」と言っていたが、たぶん同じ原理だと思う。緑茶を想像して飲んだ爽健美茶は異様な味がした。なんだ、こりゃ。ともうろこしの汁みたいな味がするぞ、と思って、それ以来長らく一度も飲まずに生きてきた。
 それから過ぎること十年以上。爽健美茶を頑なに避けてきたぼくだったが、つい先日近所の大型スーパーマーケットで買い物をしている時だった。その日、朝から忙しくて、喉が渇いているのにお茶を飲む機会がないまま走り回っていたので、すっかり喉がカラカラになっていた。どこかで自動販売機を見つけたら何か買おうと思いながら、長ネギがはみ出したレジ袋を持って、駐車場へのエレベーターに乗り込んだ。
 初めは一人だったが、駐車場のある五階まで上がるうち、途中の階で親子三人がエレベーターに乗り込んできた。子供は小学生ぐらいの男の子で、手にはペットボトルを持って、それを勢いよくグビグビ飲んでいた。水分が喉に落ちて行く音を聞くと、狂おしい気持ちになったが、それが爽健美茶だと知って少し気が楽になった。子供なら子供らしくドクターペッパーでも飲め、という偏見と邪念に満ちたことを念じながら、エレベーターの壁にもたれかけて我慢した。
 すると、ごくごくおいしそうにペットボトルを傾けて飲んでいた男の子は「ぷはっ」とやったあとに、両親の方にボトルを向けて「爽健美茶ってすげえな。こんなにおいしいのに体にもいいんだぜ!」と元気に叫んだ。それはもう満面の笑みを浮かべて。そして、さらにぐびぐびと、爽健美茶を飲み干していく。
 家族が四階で降りて行ったあと、ぼくはエレベーターの中で一人、混乱していた。なんだ、今のは? もしかしたらコカコーラ社の回し者か? と、思ったが、すでに手遅れだった。もう、頭の中から昔の爽健美茶の悪いイメージは根こそぎ消えていて、さっきの子供のぐびぐびぐびというお茶の音と、満足げな笑顔だけが頭に焼き付いていた。
 果たせるかな、駐車場でエレベーターの扉が開くと、狙ったように目の前にコカコーラ社の自動販売機があった。しかも、その上段にはなぜか爽健美茶が二本、燦然と並んでいる。逆らえなかった。もはやどうしようもなく爽健美茶を飲みたかった。飲んだら負けだという気がしたが、もう負けてもいいと思った。
『爽健美茶ってこんなにうまいのに、体にもいいんだぜー ぜー ぜー』
 と、子供の言葉に頭の中でエコーがかかって響く。気が付くと、ガシャンと爽健美茶が取り出し口に落ちる音を聞いていた。十年ぶりの爽健美茶。そんなにうまいものだったか、これは?——と、信じられない思いでそれを手に取った。その場でボトルを開け、さっきの子供と同じようにぐびぐび飲んでみた。
 うまい。うまいじゃないか、爽健美茶。子供の言う通りだ! こんなにうまいのに、体にもいいんだぜ!
 以来、悔しいが、時々爽健美茶を買うようになった。今日も一本、爽健美茶を買った。だいぶあとで冷静になって考えてみると、あれはやはりコカコーラ社の陰謀だったような気がする。きっと日本全国津々浦々の大型スーパーのエレベーターには各一人ずつあの男の子が配置されていて、一日に二百回ぐらい、ぼくのように喉の渇いた憐れなターゲットを狙っては、あの台詞を言っているのだと思う。だからくれぐれも気を付けてほしい。
 一人でエレベーターに乗っていて、爽健美茶を持った家族連れが入って来たら、耳を塞ぐのだ。(確か、男の子はオレンジ色のジャンパーを着ていたので、それを目印にしてほしい。)それでも、おそらくあなたは彼の術中に落ちてしまうだろう。あのぐびぐびと笑顔はそれほどに強力なのだ。そして、あなたがそうしてエレベーターで駐車場に向かっている間、きっと上ではニヤニヤ笑みを浮かべたコカコーラ社の販売員が、自動販売機に爽健美茶を大急ぎで補充している。
 そう。こんなにおいしいのに、爽健美茶は体にもいいのだ。

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本日のワンパラ(11/10/6)

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「長くて楽しい夢」

 二十五年前。1984年、某アメリカの田舎町。——今ではつぶれてしまった古いショッピングモールの片隅。
 まだ雪が少し残る寒い日の午後、今では名前も忘れてしまったコンピューターショップの前で、ぼくはじっと窓ガラスに貼り付いていた。すでに三十分以上外で待っていたので、手はかじかんで、息が白かったが、それでも気持ちはこれ以上ないほど高揚していた。
 当時小学校六年生のぼくは、数年前に「apple II」というコンピュータに魅せられて以来、来る日も来る日もコンピュータのことばかり考えていた。もちろん、高価なコンピュータが買えるはずもなく、暇を見つけては近くの図書館のコンピューター室に遊びに行ったり、町唯一のコンピューターショップに展示されているapple IIを触りに行った。店長のおじさんとはすっかり仲良くなって、店が閉まってからでも、しばらくapple IIをいじらせてもらえることもあった。
 冬のある日、いつものようにapple IIで他愛もないゲームをプレイしていると、ひげ面の店長がニヤニヤしながらぼくに話しかけてきた。
「すごいものを見たくないか?」
 新しいゲームでもあるのかと思って、ぼくは目を輝かせながら店長にうなずいた。すると店長は「明日うちの店にマッキントッシュが来るんだ」と誇らしげに言った。
「マッキントッシュ?」
 お菓子か何かだと思った。
「アップルの新しいコンピュータだ。すごいんだぞ。明日の三時頃に店に届くから、見に来いよ」
 店長があまりに思わせぶりに言うので、おかげでその夜はあまり眠ることができなかった。「すごい」と言われても、どんなものかさっぱり分からないので、妄想することすらできず、悶々と次の日の学校を過ごした。当然、学校から帰った瞬間に自転車にまたがって、そのまま店まで飛んでいったのだが、その「すごいもの」は到着が遅れていた。
 大らかな時代だったので、店長が「すごいもの」を取りに出る間、店は一時的に閉まっていた。仕方なく、ぼくは窓の前で待つことにした。
 そろそろ戻らないと母親に怒られるかと心配になり始めた頃、暗かった店の中に電気が灯って、奥のドアから店長が大きな荷物を抱えて入ってくるのが見えた。口をぽっかり開けたぼくが、ショーウィンドウに貼り付いているのを見つけると、店長は苦笑して、とりあえず入口の鍵を開けてくれた。まともなコートも羽織っていないぼくを見て、店長は「あったかいレモネードでも飲むか?」と言ってくれたが、ぼくはそんなことより、店の真ん中に置かれた箱が気になって仕方がなかった。
「わかったわかった、今開ける」と言って、店長はもったいぶりながら箱からきれいに梱包された「マッキントッシュ」を取り出し始めた。それは想像していたよりもはるかに小さくて、不思議な形をした物体で、およそコンピュータには見えなかった。店長は本体を店の真ん中の展示用の丸テーブルに置くと、続いて箱の中からキーボードを取り出し、それをぼくに見せてにやりと笑ってみせた。たぶんその頃には、ぼくは餌をもらう犬のように、息が荒くなっていたと思う。
 しかし、荒くなった息は、店長が箱の中から見たことのない四角い小さな装置を取り出したところで逆にぴたりと止まった。胸がドキドキしていた。こめかみの辺りに血が流れているのが分かって、なぜか涙が出て来そうな感覚があった。——きっとこれから、ぼくはすごいものを見ることになる。なぜかそんな予感がした。
 店長が電源を入れると、いつもの黒いモニタにカーソルが現れるのを待った。しかし、現れたのはカーソルではなく、矢印だった。画面の真ん中で矢印が動き回っていた。そして、それは驚くべき事にテーブルの上で動いている店長の手とぴったり連動していた。
 体中に鳥肌が立った。店長が矢印を使って、メニューを開く。あ然として見守っていると、さらに画面の矢印は鉛筆のような形に変化して、信じられないことに、画面の中に「どうだい? 驚いたか?」という文字が手書きで現れた。言葉すら出せないぼくに、たたみかけるように店長はキーボードで画面に文字を打ち込んで、また矢印で何かをいじる。次の瞬間、コンピュータがぼくに音声で話しかけてきた。
「やあ。こんにちわ。ぼくがマッキントッシュだよ」
 思わず「こんにちわ」とぼくもまじめに挨拶を返すと、店長は大きな声で笑った。すでに夕方だったが、もはや帰ることなどできるはずもなく、その日はあたりまえに閉店まで店にいたので、帰宅したあと、母親から烈火の如く叱られた。
 その日以来、マッキントッシュに取り憑かれて、ほぼ毎日その店に通いつめることになった。二冊あったマッキントッシュのパンフレットのうちの一冊を無理言って店長にもらったので、家に帰ったあともずっとパンフレットを眺め続けた。薄いパンフレットだったので、折れないようにいつも二枚のダンボール紙の間に挟んで持ち歩いて、決して誰にも見せなかった。一人で部屋のベッドに潜り込んで、飽きることなく何時間でもパンフレットの写真を眺めたりして、ずいぶん親を心配させたりもした。
 当時のコンピューターにできることは限られていたけど、それでもまるで未来を触っているように面白かった。コンピュータはまだ生まれたばかりだったけど、ぼくたちも似たようなものだった。これから、この機械がどんどんすごくなっていく未来をぼくは大人として生きて行けるんだ、と思うと、心から幸せだった。
 翌年、日本に戻ってもマックのことが忘れられなかった。当時、日本にもわずかにマックが輸入され始めた時期ではあったが、その値段は気が遠くなるようなもので、雑誌の片隅にある小さな広告の数字にはいつも0が六つ以上並んでいた。中学生になって、小遣いが1000円上がった程度では、到底手の届くようなシロモノではなかった。
 それでも執念のようにマックを求め続けて、18歳の時、初めて近くの書店で使っていたmacintosh classicの中古を格安で譲り受けることに成功した。初めてそれが家に届いた夜は、比喩とかではなく、文字通りマックを抱いて寝た。
 あれから二十年以上——。そのマックは今もまだ家の書庫にある。電源を入れれば、「漢字Talk6」が現役で動くのが自慢だ。そのほかに、家にはマックが三台ある。そのうちのひとつで、この文章を打っている。マックはすっかりぼくの日常の一部になったが、今でもふいに「わー、今ぼくはマックを使ってるんだ。すごいな」と思う時がある。きっとあの日、窓の前で震えながら待っていたまだ見ぬ「すごいもの」を、今でも待ち続けている気持ちがどこかに残っているからだと思う。
 アップルの新製品の基調講演が始まる直前は、ぼくはいつもあの窓の前で待っている少年に戻る。ワクワクして、未来に思いを馳せて、自分の鼓動が耳の奥から聞こえてくる。そんな時、人生は楽しく、明日は今日よりも明るく見える。
 実はあの時のパンフレットを倉庫から取り出してきて、今、眺めながらこれを書いている。この三十年、長く楽しい夢を見せてくれたアップルの創始者、スティーブ・ジョブスが今朝、亡くなったからだ。
 今頃、きっとこれと良く似た文章が世界中で書かれているのではないかと思う。ぼくと同じように窓の前で待っていた少年たちが、世界中にいっぱいいるはずだから。——次のone more thingがもうないと分かっていても、これからもぼくらはきっとどこかでそれを待ち続けると思う。
 ミスタージョブス、三十年間、目が回るほど楽しい思いをさせてくれてありがとう。あなたがかじって、ぼくらに渡してくれた禁断の実は、それはそれは魅力的なものでした。
 Stay hungry, stay foolish ——。
 さよなら。偉大な先生。


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(ボロボロになってしまった大切なパンフレット)

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本日のワンパラ(10/02/15)

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「もうひとつのスタンダード」

 ずっと三十年近く頭にひっかかっていたことがあった。
 アイスクリームのバニラ。
 どんなところでも必ずある味、バニラ。アイスクリーム界の標準。「プレーン」と限りなく同義語のバニラ。「アイスクリーム」の横に特にフレーバーの表記がなければ、自動的にバニラだと解釈されてしまうほどメジャーな味――それがバニラ。
 実際にはバニラビーンズからとれたれっきとした香料で、たくさん入れると食べられないぐらいきつい匂いの香料なのに、ほとんど無色だったせいか、しっかりアイスクリーム界の「プレーン」の位置に収まっている味――それがバニラ。
 実際、たまにアイスクリームには「ミルク」という味が存在する。これこそが明らかにアイスクリームの「プレーン」であるべきが、しっかりその座を奪ってしまったバニラ。

 このバニラが、実は長い間、ぼくはぴんとこなかった。
 幼い頃、両親の仕事の関係で一時期アメリカに住んでいた頃、ぼくはそれはもう尋常じゃないほどアイスクリームを食べていた。2ディップ、3ディップはあたりまえの世界で、下手すると朝ご飯と一緒にアイスクリームを食べていた。当時のアメリカはまだ「ヘルスコンシャスくそくらえ」の時代で、いかに自分が不健康かというのをアピールするためだけに、人工着色料をホットドッグに振りかけるのがクールな時代だったので、そんなことにあまり疑問も感じなかった。

 そして、この悪癖を助長してくれたのが、友達だったケーヒーさん一家である。ケーヒーさん一家はとても素敵な人たちなのだが、とにかく良く食べる。日本人の「良く食べる」とは違う次元に「良く食べる」。何しろケーヒーさん一家六人は、全員の体重を合わせると1トンを超える。しかも、その六人のうち二人は当時年頃の娘さんだった。
 ケーヒーさんの家に食事に招かれると、それはもうすごいことになる。一人につき、一匹チキンが出てくる。テーブルの中央に漏られたマッシュポテトの山で向かい側に座っている人の顔が見えない。(しかし、食事が進むと急速に見えるようになる。)そして、デザートになると台所の片隅にある巨大な専用フリーザーに連れて行かれ、そこにびっしりと何十種類も詰まったアイスクリームの山から好きなフレーバーを選ばせてもらえる。例えばチョコレートを選んだとしよう。子供なら両手でやっと持てるような巨大な容器を渡される。当然それをみんなで分けるのだろうと思いきや、大きなスプーンを渡されて「はい、次の人選んで」と言われる。
 ケーヒーさん本人に至っては、その上にチョコシロップやナッツ一袋とかををかけて食べていた。しかも、添えられた飲み物はコーラの1リットルボトル。カロリーは天文学的な数字に達していたことだろう。ケーヒーさん一家の一番の悩みはトイレの便座が定期的に割れてしまうことで、一番の自慢は風呂の水が風呂桶の三割ですむことだった。

 とにかくそんな無茶なケーヒーさん一家だったが、いつも出てくる食事はやたらとおいしかった。自家製の燻製小屋が庭にあって、そこで自分で挽いたミンチ肉のパティーを黄金色になるまで一昼夜いぶし、それに庭でとれた野菜を挟んだハンバーガーは絶品だった。それにケーヒーさん特製のフライドポテトがつく。彼らは一人でじゃがいも六個ぐらいのポテトを食べるので、いちいち細く切っていると作るのも食べるのも面動らしく、じゃがいもは丸のまま揚げていた。片手で持てないフライドポテトだったが、それにチーズとケチャップを狂ったようにかけてあるのが最高だった。
 何よりも忘れられないのがアイスクリームだった。とにかくやたらとおいしいアイスクリームで、ぼくの記憶が正しければ、それはケーヒーさんがひいきにしている小さな町のアイスクリーム屋で、真っ白の容器にはただ「ミント」とか「チョコ」とか、ペンで走り書きだけがしてあった。
 問題はここからなのだが、ぼくは当時、いつもケーヒーさんの家ではバニラを選んでいた。というのも、とんでもない量を食べることになるので、ほかの味だと途中で飽きてしまうからである。食後はみんなで居間の暖炉の前に集まって、全員アイスクリームのバケツを手に抱え、談笑しながらもくもくとアイスを食べることになる。最初アイスがカチカチなこともあって、食べ終わるのに一時間はかかるので、最後の方は食べるというよりもむしろ飲む感じになる。
 このバニラアイスクリーム、今でもはっきり味を覚えているのだが、とてもとてもうまかった。何かほかのアイスとは次元の違ううまさだった。

 ところが日本に帰ってきて以来、何百回とバニラアイスをあらゆるところで食べて来たのに、未だにあの時のアイスの味と似ていた試しすらない。雑誌などで紹介している有名店で期待してバニラアイスを注文しても、いつも何かが違う。やはり圧倒的にケーヒーさんのアイスの方がうまいのだ。
 ある時期から、それはもうたぶん自分が思い出と一緒に美化した味で、本当はすべて錯覚なのではないかと思っていた。あれはぼくの中だけにある、幻の味だったのではないかと。

 そうして、何十年が過ぎ、ぼくはほとんど完全にそのアイスのことを忘れた。
 時は過ぎて、2009年、夏。「絶叫仮面」の追い込みで疲れたねこぞうがアイスを食べたがっていたので、近所の西友までハーゲンダッツのミニカップを買いに出た。「味はなんでもいい、おいしそうなやつ」という指示を受けていたので、適当にフリーザーの中を物色して手当たり次第に三つほどカップを買って帰ってきた。
 ぼくは遠慮していたのだが、ねこぞうから「買ってきたうちのひとつがめちゃくちゃおいしいから食べてみな」と言われて、なにげなく一口もらって食べた。
 その瞬間、ものすごい衝撃に襲われた。幻だと思っていた味が、ケーヒーさんのアイスの味が、口の中に確かに広がった。あの独特のバニラの味だった。そして、その時、初めて思い出した。そうだ。たしかあのバニラには小さな茶色の粒々が入っていた。
 思わずねこぞうからカップを取り上げて、もう何口か食べてみたが、間違いなかった。これこそが三十年探していた、ケーヒーさんのアイスクリームだった。
 慌ててカップのラベルを見てみると、そこには「バニラ」ではなく「メープルクッキー」と書かれていた。メープル。そうだ。そういえば、ケーヒーさんはその白いアイスを「バニラ」とは読んでいなかった。ただ、バニラがなく、唯一あった「プレーン」なアイスがそれだったから、ぼくは自動的にそれがバニラだと思い込んでいた。でも、記憶の底からゆっくり、その容器に書いてあった本当の名前が頭に浮かんできた。
 メープル。
 そうだ。あれはメープルのアイスクリームだったのだ。
 バニラよりも香り豊かで、それでいてさっぱりとし、後味が絶妙なメープル。ぼくの住んでいたアメリカの地方がメープルシロップを好む文化だということも同時に思い出した。あの田舎のアイスクリームショップではきっと「プレーン」はバニラではなく、メープルだったのだ。

 なかなかコンビニなどでは見かけないのだが、ハーゲンダッツのアイスクリームを大量に置いているスーパーを見つけたら、ぜひ味見してほしい。バニラに隠れて、歴史の闇に葬られそうになっているもうひとつのアイスクリームのスタンダード、「メープル」を。


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本日のワンパラ(10/02/09)

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「人に言えない日本地理」

「名古屋県ってどこにあるんだっけ?」
 ぼくが実際にスタッフにした質問である。しかも、これはほんの数年前のことだ。あまりにも周りの連中が引いているので、さては35にもなって「名古屋県」の場所すら分からないのかとあきれられているのだろうと思って、「日本の地理は弱いんだよ」とまで付け足したが、みんな顔を見合わせるだけで、表情が凍り付いていた。一番若い女の子は何か珍しい生き物が部屋に入ってきたような顔でずっとこっちを見ている。ぼくはちょっとむっとして、「名古屋県だよ、名古屋県。何? 誰も知らないの?」と繰り返した。

 また、こんなこともあった。
「北海道って県付けるんだっけ?」
 こんなのもあった。
「奈良って京都のどのへん?」
 これはもう少し若い時だけど、聞いた人には強烈な印象だったらしい。
「四国って九州だっけ?」
 どうもギャグで言っていると思われることもあるようだが、誓って言うが、どれもその時にはマジで聞いていたものだ。今日もねこぞうに「餃子の宇都宮市って何県だっけ?」と聞かれて、ためらうことなく「埼玉だろ。おれ、行ったことあるし」と答えたばかりだ。行けるものなら行って見ろよ、埼玉の宇都宮市、と自分に強く突っ込んでおきたい。

 そう。ぼくは日本地理が極めて苦手だ。本州の最南端、九州まで5分っていうところで十数年育ったのに、九州の県がつい最近まで「福岡」と「長崎」しか分からなかった。それも両方位置は間違えていた。あと、「別府」という県があった気がしたが、さっき地図で確認したら存在しなかった。たぶんこの「大分」か「宮崎」というのがそれに当たるのではないかと思う。

 そんなわけで、いったい自分がどのくらい日本地図を把握しているのか試すために、ネットにある「日本地図ゲーム」をやってみることにした。これは県の形に区切った白地図に、それぞれ正しい県名を書き込んでいくというシンプルなものだ。なんだかんだ言っても、ぼくももうすぐ四十歳。案外、パーフェクトを出してしまうんじゃないかと内心なめてかかっていた。 まずは出身県の山口を書く。余裕だ。でも、さっそくここでちょっと首をひねった。
「山口」のとなりはずっと「広島」だけだと思っていたのだが、地図をよく見ると、何か上にも県があることに気がついた。この県の名前がいくら考えても思い出せない。――いや、いくらなんでもとなりの県である。きっとど忘れしているだけで、答えを見れば「あーあー」と思うだろうとタカをくくっていたが、見てみたら「島根県」。まったく思い当たらない名前だった。大学の時に山形県出身の「島根」というやつがいたが、あれはたぶんなんの関係もないのだろう。
 奥さんの出身であるため、何度も行っている四国はさすがに自信を持って書いた。なめるなよ。これでもカーナビだけでいつも車で四国まで行ってるんだから。そう思って答え合わせしたところ、なんと四県を四県ともずらして間違えるという、逆に狙ってもできそうもない間違え方に成功していた。というか、そもそも香川県を「高松県」と書いていた。

 関東はもう住んで十数年。しかも成人してからの十数年で、その間、何万キロも車で運転している場所だ。さすがに余裕だろうと思って、県名を埋めていった。東京、神奈川、千葉。少し迷ったけど、中央線の先にあるのだから左の奴が山梨。上はよく通っていた埼玉。おお、順調じゃないかと自分に誇らしく思いながら、何やら上の方にもう三県並んでいることに気がついた。なんだこれは? 関東って、ほかにも県あったっけ? と、その三件に住んでいる方に失礼なのを承知で思った。いや、待てよ。これのうちのひとつって妹が住んでる茨城だろ。そう気がついた。たしか茨城に車で行った時は高速で二時間ほどかかった。所沢は下の道で一時間弱ぐらいだから、だいたいその倍ぐらいの距離にあるはず。でも、どれだ? そしてほかの二つは? もしかして千葉ってもっと上だったか? 電車で二時間半ぐらいと聞いていた静岡も怪しい。そういえば仙台も新幹線ならすぐって聞いてたし、寒いっていうから上の方じゃないのか? 待てよ。仙台って県だっけ? 仙台県? なんか聞いた覚えがない名前だな。だとしたら何県だ?
 迷った末に、その三県は左から大学の合宿で行った「長野」、妹の住んでいる「茨城」、そして昔友達が住んでいた「群馬」と書いて答え合わせした。ねこぞうから「バカ? もしかしてバカ?」と聞かれた。

 しかし、ここまではまだよかった。これからがいよいよ怪しい。
 関西、甲信越、東北。
 まず正直に告白しよう。今まで何度もその単語を口にしたり、話題に出た時には相槌を打ってきたが、ぼくは本当のところ、「甲信越地方」が何か分かっていない。場所が分からないのではない。「何か」分からないのだ。もしかしたらフィクションに出てくる場所かもしれない。あるいはいずれかの県の江戸時代の呼び名である可能性もある。たぶん……たぶんだが、きっと関西と関東の間のよくわからないごちゃごちゃしたあたりのどっかだとは思うのだが、もしかしたら山か何かの名前かもしれない。下手したら「甲信越県」の可能性も視野に入れて、今まで三十九年間ごまかしてきた。なので、このあたりの地理は絶望的だ。
 おまけに関西も自信がない。ほとんど行ったことがない上に、「名古屋県」が未だにどこにあるか分からない。だいたいの県の名前は言える。「大阪」「京都」「奈良」「和歌山」そして「名古屋が入っている県」だ。もしかしたら全部関西じゃないかもしれないけれど、まあ、ぼく的には関西だ。問題はどれがどこにあるのか皆目検討がつかないことだ。よく下関に帰郷する時に新幹線でこれらの駅を通過するので、漠然と並んでいる順番は分かっている。問題は、新幹線の線路がどう通っているのかがさっぱり分からない事だ。まさかそんなに大回りはしないだろうという推理で、下半分に順番に知っている県を書き入れていったのだが、結果、全滅。静岡県の存在をとばしていたことも致命傷だった。

 最後の東北地方はもはや見当がつかない。自信を持って記入したのは北海道ただひとつ。(正直、これも書きながら間違っていたらどうしようかと思っていた。)秋田と青森はどこかにあるはずだ。福島っていうのもあったと思う。問題は仙台が県かどうかだ。なんとか全部書き終わったが、日本海側の県はほとんど真っ白のまま。しょうがないので、いくつか件名を発明して埋めておいた。そんなわけでぼくの住む日本は、北側が「崎陽県」「開高県」「北斗百裂県」「ペガサス流星県」など大変カラフルな地方となった。

 答え合わせボタンがあるので、おもむろに押してみると47都道府県中、正解が12県。奥さんの出身県を間違えている上、父方の故郷の山梨、母方の奈良、そして妹が現在在住している茨城も間違えるという逆パーフェクトの凄まじい成績。自分が実際に長期間住んでいた「山口」「東京」「神奈川」と、三葉虫でも間違えないと思われる「沖縄」「北海道」を除き、なんと正解したのは7県だけ。しかも7つのうち半分は当てずっぽうかラッキーで当たったもので、ひとつは漢字を間違えていた。福井県に関してはお住まいの方には大変申し訳ないのだが、生まれて初めて聞いた名前のような気がしてならない。

 さすがにこれには自分でも危機感を持ったので、その後、地図帳と三時間にらめっこして、やっと全部の県の位置を覚えた。その際にいくつか驚くべき発見をしたので、それをここに羅列してこのワンパラを終わりたい。

・大阪が思ったより小さかった
・三重県の県庁所在地の名前が誤植かと思った
・正直、愛知県よりも名古屋県の方が覚えやすい気がする
・崎陽県は悪くない名前だと思う
・実は東京も最初場所を間違えかけていた
・島根、福井などの県にお住まいのみなさま、不幸のメールとか送ってこないでください。すみません、反省してます。
・たぶん一月もあれば、また大半は忘れると思う


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